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 " 小樽市色内 3 丁目 7 - 8 " に現存する国指定重要文化財 「 旧日本郵船 (株) 小樽支店 」 は、日露戦争直後の明治39 ( 1906 ) 年 10 月に竣工した石造二階建て、建築面積 485 m² の重厚な建築です。
 設計者は 「 佐立七次郎 」 ( 1856 - 1922 ) 。
現東京大学工学部の前身である 「 工部大学校 」 ( 明治 6 ( 1873 ) 年に入学した時は 「 工部省工学寮 」 ) 造家学科の第一期生です。「 工部大学校 」 は、明治新政府の工部省が、諸外国の先進技術を文明開化後の日本に移植するために設置した技術者養成機関で、修業年限は 6 年間。その教育にあたったのは明治政府が西欧諸国から招いた 「 御雇い外国人 」 たちでした。

 建築 ( 当時は " 造家 " と訳されていました ) の分野では、西洋建築技術を指導するために、英国より 「 ジョサイア ・ コンドル 」 ( 1852 - 1920 ) が招かれました。ここを巣立った若者たちはそれぞれの分野で、日本の近代化に大きく貢献することとなります。
 この建物を設計した佐立七次郎はその教えを受けた日本人建築家の第一号ですが、明治 12 ( 1879 ) 年 11 月に卒業した造家学科第一回卒業生の顔ぶれは、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵、そして佐立の 4 名のみでした。



 ではここで簡単に同級生を紹介しましょう。

  4 人のうち首席で卒業した辰野金吾 ( 1854 - 1919 ) は、英国留学から帰国後工部省営繕課に入り、工部大学校教授として母校の教壇に立ち、後輩の教育に力を尽くします。帝国大学工科大学長、建築学会会長、震災予防調査会会長などの要職を歴任し、また明治 36 年に東京、同 38 年には大阪に設計事務所を開設して数多くの作品を残し、名実ともに明治大正建築界のボスとして君臨しました。中でも議院建築をめぐる大蔵官僚の建築家、妻木頼黄 ( 1860 - 1916 ) との対立は有名な話で、大正 8 年 3 月、妻木の死後に実施された議院建築コンペの審査中に倒れ、帰らぬ人となりました。いまは東京都西新宿の常円寺墓地に眠っています。( ずいぶん前のことですが、個人的に " 掃苔 " について調べたことがあって、真っ先にお墓参りをしました ) 代表作は日本銀行本店 ( 明治 29 年 )、東京駅など ( 大正 3 年 ) ですが、小樽市内には 「 日本銀行小樽支店 」 ( 明治 45 年 ) を残しています。設計には辰野のほか、後輩で教え子でもあり、当時日本銀行技師であった長野宇平治 ( 1867 - 1937 ) と、同じく後輩で教え子の岡田信一郎 ( 1883 - 1932 ) が名を連ねています。


 また、片山東熊 ( 1854 - 1917 ) は、卒業後工部省を経て宮内省に入り、宮内技師から内匠頭となって一生涯を宮廷建築家として通した人物です。( 「 天皇の料理番 」 という小説の中にこの " 片山 " が登場する部分があります ) 明治 30 年頃から東宮御所 ( 赤坂離宮 ) 関係の職務が中心となり、海外への出張を重ねた後、明治 42 年には竣工を迎えます。大正 4 年に宮中顧問官となり、翌 5 年、勲一等旭日大綬章を受けますが、大正 6 年 10 月に亡くなりました。代表作はなんと言っても 旧 赤坂離宮 ( 現 迎賓館 ) ( 明治 42 年 )です。



 曽禰達蔵 ( 1853 - 1937 ) は、卒業後工部大学校助教授、海軍技師などを経て三菱に入り、丸の内の三菱赤煉瓦街の建設にあたりますが、明治 41 年、後輩の中條精一郎 ( 1868 - 1936 ) と共同で 「 曽禰中條建築事務所 」 を開設します。戦前では最大の建築事務所で、多くの優秀なデザイナーたちをかかえ、建築を学ぶ学生たちの憧れの的であったといいます。建築学会会長などの要職にもつきますが、昭和 12 年 12 月に亡くなりました。代表作は慶応義塾創立五十周年記念図書館 ( 明治 45 年 )、東京海上ビルヂング ( 大正 7 年 ) などですが、小樽市内には 旧 三井銀行小樽支店 ( 2002 年 11 月 18 日に札幌支店と統合して閉鎖。「 白い恋人 」で有名な石屋製菓が購入し、多目的ホールとして活用 ) ( 昭和 2 年 ) が残っています。


 ここでいよいよ佐立七次郎の紹介ですが、この記事の主人公でもある彼については、本当のところ、ほかの三名にくらべてあまり詳しくは知られていません。卒業後は工部省に入って恩師であるコンドル設計の上野博物館の建築掛となります。その後海軍技師などを経て、明治 17 年に藤田組に入りますが、二年余りでふたたび官途に就き、同 20 年 2 月に逓信技師となって全国各地の郵便局 ( 九段、浅草、大阪中之島 )などを手がけます。その後、明治 24 年に官を辞して建築事務所を開設し、徳川侯爵邸 ( 明治 26 年 )、東京株式取引所 ( 明治 30 年 ) などを残します。また日本郵船 (株) の建築顧問となって東京、横浜などのほか、朝鮮、上海、香港など数多くの同社諸建築の建設に関与し、この小樽支店も設計しました。
 彼の作品で現存するものは、この建物と 「 日本水準原点標庫 」 ( 明治 24 年 ) の二つだけで、それだけの作品がすぐ間近で見られるのは大変に恵まれていると思います。佐立は小樽支店の竣工後健康を害して家にいることが多くなりますが、大正 11 年 11 月に 67 歳で息を引き取りました。

なお彼の子息である佐立忠雄 ( 1886 - 1952 ) は早稲田大学の建築学科を卒業して父の職業を継いでいますが、その忠雄の作品も小樽市内に 「 和光荘 」 ( 旧 野口喜一郎邸 大正 11 年 )として現存しています。野口は小樽の銘酒「北の誉酒造」を営む野口家の二代目。佐立の助言を受けながら野口が基本設計を行ないました。
右の写真は早稲田の卒業記念として撮られたものです。 卒業記念の全体写真は こちら
なお、早稲田大学建築学科の第一回卒業記念写真は、
[BOOKS] のコーナーの File #002 『 東京帝国大学紀要 工科 第壹冊 第壹號 』 のところで
既に 掲載済み です。





 人物はこれくらいにして、今度は歴史的な背景について少し・・・・・・・・・。

 江戸時代、北海道を探検した近藤重蔵をして 「 エゾ地西海岸第一の良港 」 と言わせた " テミヤ " ( 現在の小樽港 ) 。
 本道の西海岸を北上するニシンを追って、松前、江差方面から人が集まりはじめたのは江戸時代後半でしたが、明治27 年の 「 大豊漁 」 を最後にニシンの水揚げもだんだんと減りはじめます。
 明治になると商業都市としての発展を見せるようになりますが、その契機となったのは日本で三番目、北海道では最初となる鉄道の敷設でした。開拓使と、アメリカ人ジョセフ・U・クロフォードによって明治 13 年に開通した鉄道は、もともと幌内炭鉱の石炭輸送が目的で、終点の手宮には高架桟橋とよばれる施設がつくられました。また、明治 13 年 ( 1880 ) 10 月 24 日、鉄道開通の試運転にはあの 「 弁景号 」 が走りました 。 ( 現在は東京の交通博物館に収蔵展示されています。ちなみに兄弟関係にある 「 義経号 」 は大阪の交通科学博物館に、「 静号 」 は小樽市内の 「 北海道交通記念館 」 に展示されています ) 

 また、明治から大正にかけての小樽港の貨物の荷役は " ハシケ " によるものが中心でしたが、明治 40 年代になって岸壁の建設が持ち上がった際、札幌農学校の卒業生で、東京大学教授 広井勇 ( 1862 - 1928 ) 博士の意見により埋め立て式運河とすることになりました。
 当時、博士は初代小樽築港事務所長として、小樽港の北防波堤をすでに完成させており、その意見は小樽の将来を大きく転換させることとなったのです。
( 小樽公園内にあった広井博士の胸像は、帝国大学工科大学での教え子で、彼の後任として小樽築港事務所長を引き継いだ 伊藤長右衛門 ( 1875 - 1939 ) の胸像とともに、旧日本郵船支店前の " 運河公園 " に移設されています )

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 こうして、今に残る 「 小樽運河 」 が着工したのは大正 3 年 ( 1914 ) 8 月のことで、同 12 年 ( 1923 ) 12 月に竣工、総工費 190 万余円、幅 40 m、長さ 1,314 m の運河が完成しました。しかし、その後の船舶の大型化に伴って埠頭も建設され、現在の港の形ができあがりました。





 今度は、小樽と企業とのつながりについて簡単に見てみましょう。
 いま小樽の " 運河周辺 " を歩くと、たくさんの観光客たちの流れは、おおよそ「 運河沿い 」と 「 色内通り 」 の二本の道に分かれているのに気づきます。前者は文字通り " 小樽運河 " が主人公で、その独特の景観 ( 埋め立てにより少し変わってしまいましたが ) が目当てと考えられます。また後者は、多くの物販店や飲食店などが建ちならび、海産物やアクセサリーなどを買い求める姿も目につきます。

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 じつは、この 「 色内通り 」 周辺が、大正末期から昭和戦前にかけての小樽最盛期を支えた一大商業地区で、この通りと交差する " 緑山手通り " ( 浅草通り ) にかけて、銀行、商店や商社などが軒を競い合いました。
 中でも緑山手通り周辺には、日本銀行、三井物産、北海道銀行 ( 戦前のもの )、三菱銀行、北海道拓殖銀行、第一銀行、小樽銀行協会、三井銀行、百十三銀行などが建ちならび、 「 北のウォール街 」 とよばれたこともありました。
#021 #024
   
#020
   
#019 #026
   
#136
さらに、
「 日本銀行小樽支店 」 #021 ───── 「 辰野金吾 」 ・ 「 長野宇平治 」 ・ 「 岡田信一郎 」 、
「 北海道銀行本店 」 #024 ───── 「 長野宇平治 」 、
「 三井物産小樽支店 」 ───── 「 松井貴太郎 ( 横河工務所 ) 」、

また、
「 三井銀行小樽支店 」 ───── 「 曽禰中條建築事務所 」
( 現存のもの #020。それ以前のもの #019 は 「 横河民輔 」 ) 、
「 北海道拓殖銀行小樽支店 」 ───── 「 矢橋賢吉 」
( 小樽市内には二つの 「 旧 北海道拓殖銀行小樽支店 」 が残されています。明治 39 年竣工 #136 および大正 12 年竣工 #026 のいずれもが矢橋の設計によるものです。)

といったように、当時の建築界をリードする帝国大学出身のそうそうたる建築家たちが、その設計に関与しているのは注目に値するところです。

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 また「色内通り」にも商店、銀行などが建ちならび、札幌の丸井今井呉服店なども支店を構えました。このような中で、運河および石造倉庫群を背景とした物資の輸送を担う船会社も進出し、日本郵船をはじめ、大阪商船、三井船舶 (この両者は後に合併) や山下汽船といった本州大手のほか、地元の商船会社も軒を並べました。日本郵船と小樽との関係は古く、明治11年 (1878) には、同社の前身である郵便汽船三菱会社が小樽に出張所を設けています。





#081 の一部分を拡大してあります

 では最後に「日本郵船 (株) 小樽支店」について・・・・・・・。
 現在の建物は、明治38年 (1905) に着工し翌39年 (1906) 10月に竣工した、石造二階建て、工費約 6万円をかけたルネッサンス様式の重厚な建築です。日露戦争の勝利によって南樺太が日本の領土となり、同年11月、その国境画定会議 #081 が、竣工したばかりの同支店二階の会議室で開かれたのは有名な話で、そのあとの宴会が同市内の料亭 「海陽亭」 (旧 魁陽亭) の大広間で開かれたこともよく知られています。
 「日本郵船 (株) 小樽支店」 の建物は、一時小樽市博物館などにも使われましたが (国重文指定は昭和44年 3月)、昭和59年 (1984) 10月、総工費約 2億 5千万円、約 3年の歳月をかけて修復工事が行なわれ、昭和62年 (1984) 6月に工事が完了し、創建当時の姿がよみがえりました。
 その後一般公開されて現在にいたっています。

※ なお同建物については、元施設職員 北川佳枝女史 の著作
  『 INAX ALBUM 3 近代商業建築を観る 旧日本郵船株式会社小樽支店の再生 』(INAX 発行)
  に詳細な解説がなされています。

重要文化財 旧日本郵船株式会社 小樽支店

〒 047 - 0031
小樽市色内 3丁目 7番 8号   TEL / FAX 0134 (22) 3316

 
開館時間 AM 9 : 30 〜 PM 5 : 00
 
休 館 日 月曜日 (祝日以外) ・ 祝日の翌日 (土日を除く)
年末年始 (12/29 〜 1/3)
 
入 館 料 大人 (高校生以上)  \ 100
  子供 (小 ・ 中学生)  \ 50
  団体20名以上 上記金額の 2割引
 
交  通 JR 小樽駅下車 徒歩約20分
 
小樽市による公式ページは こちら


※ このページの人物写真につきましては、以下の文献に掲載のものを使わせて頂きました。
 
  ◆ 『コンドルとその周辺展図録』 桑名市博物館 1993
  ◆ 『旧工部大学校史料』 旧工部大学校史料編纂会 虎之門会 1931
  ◆ 『工学博士 辰野金吾伝』 白鳥省吾 辰野葛西事務所 1926
  ◆ 『曽禰達蔵 中條精一郎 建築事務所作品集』 黒崎幹男 中條建築事務所 1939
  ◆ 『INAX ALBUM 3 近代商業建築を観る 旧日本郵船株式会社小樽支店の再生』 北川佳枝 INAX 1992
  ◆ 『工学博士 広井勇伝』 故広井工学博士記念事業会 工事画報社 1930
  ◆ 『伊藤長右衛門先生伝』 中村廉次 北海道港湾協会 1964
  ◆ 『建築世界 第八巻第八號 (大正3年8月)』  建築世界社 1914
 
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