註釈一覧



1) 妻木頼黄(1859〜1916)
安政6年、旧長崎奉行妻木源三郎の長男として江戸に生まれる。明治11年工部大学校造家学科に入学、同15年アメリカ留学の為同校を中退してコーネル大学3年に編入し、17年同校建築学科を卒業。18年9月、英独仏伊の諸国を経て帰朝、同年11月東京府御用掛を命ぜられる。19年5月、臨時建築局四等技師に任ぜられ建築調査の為ドイツへ出張、帰朝後は同局廃止とともに内務省技師となって東京府技師を兼任、28年臨時帝国議会広島仮議事堂を担当する。さらに29年大蔵技師として臨時葉煙草取扱所建築部技師に任ぜられ、38年9月の大蔵省臨時建築部長となるに至って絶大な権力を持つようになり、多くのプロジェクトを指揮、特に議院建築の実現に全力を傾けたが、大正5年10月、58歳で逝去。代表作に東京府庁舎(明27)、東京商業会議所(明32)、横浜正金銀行本店(明37)、日本赤十字社(大元)など。
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2) 大熊喜邦(1877〜1952)
明治10年東京生まれ。第一高等学校卒業後帝国大学工科大学建築学科に入学し、36年7月卒業。同級に佐藤功一、佐野利器、田辺淳吉などがいた。その後大学院に進むが、38年横河工務所に入り、40年大蔵省臨時建築部技師、大正2年大蔵技師を経て、同7年6月に臨時議院建築局技師に任ぜられ、工営部調査課長となる。また12年9月には臨時営繕局技師を兼務、14年6月営繕管財局技師として工務部工務課長、さらに昭和2年5月には矢橋の後任として工務部長となり、国会議事堂を完成にまで導く。一方で江戸建築の研究でも知られ、『江戸建築叢話』『東海道宿駅と其の本陣の研究』などの著書がある。昭和27年75歳で逝去。代表作は武藤山治邸(明40)、内閣文庫(明44)など。
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3) 矢橋家
矢橋亮吉の伝記である『矢橋南甫翁伝』記載の矢橋家系譜によれば、桓武天皇第二皇子の嵯峨天皇にまで遡っているが、はじめは “ 渡辺 “ の姓を名乗っていたようである。のち渡辺丹後守量及び渡辺新左ェ門昌が江州矢橋郷に住んだことから、新左ェ門の嫡男彦十郎の代より在名を以って矢橋姓を名乗る。惣本家初代藤十郎(孝)の長男惣四郎が惣本家を継ぎ藤十郎を襲名、賢吉の長兄徳次郎へとつながり、また一方五男徳四郎は三郎兵衛として分家の後、本家となり、赤坂の素封家矢橋宗太郎へとつながってその長男敬吉が本家を継いだ。さらに敬吉の弟亮吉が南矢橋として分家し、明治34年大理石業を創始したのである。
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4) 金生山
岐阜県大垣市赤坂町から揖斐郡池田町にまたがる標高217メートルの山。古くから赤坂山の名でも知られる。全山石灰岩から成り、それを利用した石灰産業の歴史は古く、元禄11年(1698)北東麓の市橋村(現池田町)に石灰窯がつくられたのが始まりとされる。明治期に入り、赤坂は中山道の宿場町から石灰及び大理石工業の町へと変貌するが、昭和10年代には石灰の生産量日本一を誇ったという。
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5) 矢橋徳次郎(1858〜1927)
安政5年4月、矢橋藤十郎の長男として美濃赤坂に生まれる。賢吉の長兄であるが、明治11年家督を相続し、県下屈指の大地主、最多額納税者となる。明治10年以降県会議員に3期当選、美濃実業銀行、高須貯蓄銀行、赤坂銀行及び大垣銀行などの取締役としてその経営にたずさわる。昭和2年1月歿。
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6) 矢橋為吉
生年不詳。賢吉の次兄。明治26年4月より同34年3月まで、大垣市赤坂村(同村は34年5月21日より町制施行)赤坂尋常高等小学校校長。昭和11年1月歿。
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7) 杭瀬川
揖斐郡池田町付近の湧泉を源とし、大垣市街の西側を通って揖斐川に合流する延長約17qの清流で、ゲンジボタルの名所であった。現在は農業用水に利用。
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8)
『赤坂町史』第8篇人物伝 489頁。下元連の回想によれば三段くらいであったという。(『建築家下元連九十六年の軌跡』133頁)
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9) 渡辺至(1850〜?)
嘉永3年愛媛県に生まれる。明治5年大蔵省租税寮に出仕し、その後主税官を経て同19年3月横浜税関副長、さらに同26年10月には長崎税関長となる。翌27年7月に矢橋が工科大学を卒業、直ちに「長崎税関監視部庁舎」の設計監督を依嘱され、28年3月には同建物が竣工していることから、当然二人の出会いは考えられるところであるが、渡辺の二女すて子と矢橋の関係については不明な部分が多い。その後、29年6月に退官してからは、安田商事C大阪支店、安田倉庫支配人、阪神電気鉄道滑ト査役などを歴任。
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10) 大澤三之助(1867〜1945)
慶応3年江戸に生まれる。明治24年7月矢橋とともに第一高等学校を卒業、帝国大学工科大学造家学科に入学し、同27年卒業後直ちに大学院に進む。31年開設されたばかりの東京美術学校(現 東京芸大)図案科講師となり、32年には工科大学講師を兼務、35年より東京美術学校教授として装飾法、家具史、建築史を担当、38年には図案科主任となる。翌39年建築装飾研究の為文部省より英仏伊各国への留学を命ぜられて43年帰朝。大正3年宮内省内匠寮技師となるがデザイナーの道は選ばず、東京美術学校最初の建築教授という教育者としての名を残す。作品は岩村透邸、福澤邸、東京美術学校図案科教室など。昭和20年歿。
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11) 遠藤於菟(1865〜1943)
慶応元年木曽福島生まれ。東京外国語学校仏語科を経て明治24年矢橋とともに第一高等学校を卒業、同年9月帝国大学工科大学造家学科に入学した。入学直後の10月28日に発生した濃尾大地震(マグニチュード8.4)の学術調査の為学友と共に名古屋へ動員され、それがきっかけで「耐火耐震の建物を」という建築の道を選ぶ。卒論「日本造家学の進路」を提出して27年7月卒業。益田孝からの三井への誘いを断り横浜に設計事務所を開設、その後東京に事務所を移し大正12年の関東大震災では鉄筋コンクリート構造の先駆者として再評価を受ける。昭和18年肺炎の為78歳で逝去。代表作に横浜銀行集会所(明38)、三井物産倉庫(明43)、三井物産横浜支店(明44)、農林省生糸検査所(大15)など。
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12) 野口孫市(1869〜1915)
明治2年姫路に生まれる。第三高等学校卒業後明治24年帝国大学工科大学造家学科に入学、矢橋、大澤、遠藤と同級となる。同27年7月に卒業し大学院で耐震構造の研究を行なう。逓信技師、震災豫坊調査会臨時委員を経て、32年住友家に入り欧米各国へ出張、翌33年帰朝し直ちに住友本店臨時建築部技師長となり、同年技師として入社した後輩の日高胖とともに住友営繕の基礎を築く。39年4月にはサンフランシスコ震災調査の為同地に出張を命ぜられ7月に帰朝。大正4年2月工学博士の学位を授けられるが、前年暮れに胸の病が再発し東京芝の北里研究所附属養生園にて療養中であり、同年10月47歳で逝去。代表作に住友家須磨別邸(明36)、大阪府立図書館(明37)、住友銀行京都支店(明38)など。
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13) 辰野金吾(1854〜1919)
嘉永7年唐津に生まれる。明治5年上京、翌6年工部省工学寮に入学し同12年11月工部大学校造家学科第一期生として首席で卒業すると直ちに英国留学を命ぜられロンドン大学で造家学を修める。その間 W.バージェスの事務所で指導を受け、仏伊諸国を巡遊、16年に帰朝後直ちに工部省に出仕し、17年工部大学校教授、19年帝国大学工科大学教授となる。21年臨時建築局技師工事部長を兼任するが日銀の設計依頼を受けて辞任、その後工科大学長、議院建築調査会委員、震災豫坊調査会長などを歴任、36年東京帝国大学名誉教授となる。一方民間においては36年東京に辰野葛西事務所、38年大阪に辰野片岡事務所を開設して数多くの作品を残し、日本建築界最大のボスとして君臨した。議院建築では懸賞設計競技論を主張し、事務局側の中心人物であった妻木頼黄と対立したが、結果的には大正5年の妻木の死により競技は実施され、同8年応募案の審査中途にして流行性感冒から肺炎を併発、3月26日自邸において逝去した。享年66歳。作品は東京銀行集会所(明17)をその処女作とするが、代表作としては渋沢栄一邸(明21)、日本銀行本店(明29)、国技館(明42)、東京駅(大3)など。
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14) 中村達太郎(1860〜1942)
万延元年江戸に生まれる。明治9年工部省工学寮に入り15年工部大学校造家学科を卒業、直ちに工部省技手として営繕局勤務を命ぜられ皇居御造営事務局に出仕する。20年12月より帝国大学工科大学助教授となり家屋構造の授業を担当、27年3月教授に進み、39年渡米、42年には渡欧し、帰朝後大正8年東京帝国大学教授、同10年名誉教授となる。工科大学で教壇に立って以来約40年間を教育者として通し、その間構造力学を除くほとんどすべての分野にわたって担当した。建築作品は少ないが、著書『日本建築辞彙』(1903年初版)、『建築学階梯』(1887年初版)などを通してその影響力は絶大であった。昭和17年歿。
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15) 石井敬吉(1866〜1933)
慶応2年茨城県に生まれる。第一高等学校を経て明治24年7月帝国大学工科大学造家学科を卒業、翌25年3月にその助教授となり建築製図を担当する。31年12月東宮御所御造営局技師となり32年3月渡米、翌33年2月に帰朝し40年内匠寮技師となるが二ヶ月ほどで依願免官、3月横河工務所に技師として入る。帝大時代は日本建築を研究、また鉄骨構造学にも造詣が深く、横河工務所では鉄骨構造を担当し数多くの建築物の設計及び計算に関与した。その主なものとして、帝国劇場(明44)、銀行集会所(大5)、工業倶楽部(大9)、東京証券取引所(昭2)などがある。昭和8年歿。
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16) 小島憲之(1857〜1918)
安政4年栃木県に生まれる。明治3年東京大学の前身である大学南校に入学、6年中退して渡米、ハートフォード中学校から同8年9月コーネル大学建築学科に入学し、12年6月卒業してバチェラー・オブ・アーキテクチュアの学位を受ける。その後アメリカの事務所で修業し14年帰朝、同年10月文部省御用掛となり15年12月東京大学教授に任ぜられる。また19年第一高等中学校教諭となり20年帝国大学工科大学講師を兼務、21年には工科大学教授、さらに東京美術学校教授を嘱託され幾何画法を担当、23年10月第一高等中学校教授となる。のちに工科大学で小島の教えを受ける矢橋は、すでにこの頃からその影響を受けていたものと思われる。小島は日本人としては最初の世代の建築家であるが、建築家よりはむしろ教育者としての業績が高く評価されている。大正7年8月に亡くなるまで一高に在籍するが、明治から大正にかけて活躍をする建築家の多くが一高出身者であることから考えると、その影響力は大きかったと思われる。
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17) 木子清敬(1844〜1907)
弘化元年京都府に生まれる。明治2年明治天皇の東京遷都にともなって上京、同4年宮内省営繕司、6年内匠司に出仕、15年皇居御造営事務局が設置され翌16年より木造宮殿の計画に関与する。20年12月事務局は廃局となるが21年の宮殿竣工後も内匠技師としてとどまる。22年には帝国大学工科大学造家学科講師を嘱託され第3講座(建築史)を担当、日本建築の講義を行なう。31年8月に東宮御所御造営局設置とともにその御用掛を兼任、この間29年内務省に古社寺保存会が設置されるが、当初建築分野での委員は妻木、木子、伊東の3名であった。39年12月退官、翌40年6月逝去。
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18) 大阪土木会社
「大阪土木会社」(正しくは大阪土木株式会社)は、「公利の嘱託に応じ、水利、土工工事及び家倉庫建築設計並びに付属機械材料の注文を請負う」ことを目的として、明治26年3月、資本金20万円をもって設立された。発起人は土居通夫をはじめとする大阪財界人であったが、その設立前後の経緯は複雑で、明治20年3月に我国初の請負会社として、大倉喜八郎、藤田伝三郎、渋沢栄一により設立された「有限責任 日本土木会社」にまで遡る。当時、東京を本拠にその営業基盤を固めていた「大倉組商会」と、同じく大阪を本拠としていた「藤田組」が渋沢栄一の斡旋による一大請負会社として実現したのが「日本土木会社」で、資本金200万円は大倉、藤田、渋沢の三名で引き受けたという。(明治20年の政府財政支出は7,945万円)官庁工事を中心に組織的な経営により着実に業績を伸ばし、当時の一流技術者であった工部大学校及び帝国大学工科大学の卒業生たちを多くかかえ、また会社の印半纏を身に着けていれば官庁への出入りも自由であった。明治22年、藤田一派は持ち株を大倉らに譲って退陣し、それ以後会社は大倉の主宰の下、事業を継承する。ところが明治22年2月に公布された会計法の影響により、明治25年10月、「日本土木会社」は解散を余儀なくされる。国の関係する工事請負等に一般競争入札制度が導入された為で、それまでの信用取引を背景とした官庁工事と法人業者との非公式な関係が打ち破られたのである。これは「日本土木会社」に限らず、当時の法人請負業者たちには大きな打撃となった。そして明治26年3月、土居通夫らが発起人となり、解散した「日本土木会社大阪支店」の技師及び器械の一部を譲り受け、「大阪土木株式会社」が設立された。社長には同支店会計役の木村静幽が就任している。明治27年の『日本全国諸会社役員録』には同社顧問として山口半六の名も見えるが、この、関西で初めての建設会社も長続きはしなかったらしく、その後の消息は定かでなく、矢橋との関わりも不明である。
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19) 工手学校
造家学科では辰野金吾、藤本寿吉の2名が発起人に名を連ねる。土木、機械、造家など8学科、予科1年、本科3学期1年半の修業年限で夜間4時間授業を開始。22年7月に第一回の卒業生(造家学科は19名。福井県庁舎の工事監督を担当した八島震はそのうちの一人)を出す。明治年間だけでも建築学科の卒業生は1264名にのぼった。明治36年建築学科と改称、昭和3年工学院、同19年工学院工業専門学校、24年工学院大学となり現在に至る。また教授陣は、辰野、片山東熊、中村達太郎、河合浩蔵をはじめ、妻木頼黄、曽禰達蔵、新家孝正、渡辺譲、野口孫市、長野宇平治、山下啓次郎、矢橋賢吉、三橋四郎、佐野利器、大熊喜邦、岡田信一郎などそうそうたる顔ぶれであった。
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20)
明治38年10月の大蔵省臨時建築部官制では、臨時建築部長妻木頼黄のもとに技術担当の第一課及び第二課と事務担当の第三課が置かれ、第一課は (1)建築工事の計画及び設計 (2)建築工事の実施及び監督 (3)敷地測量 (4)発動機械設備の計画及び設計 (5)発動機械及び付属器具設備の施行及び監督、第二課は (1)土木工事の計画及び設計 (2)土木工事の施工及び監督 (3)海面測量 を掌り、第一課長が矢橋賢吉、第二課長は土木出身の丹羽鋤彦であった。また、矢橋が明治32年臨時税関工事部技師として建築課長妻木の下についた時、丹羽は土木課長であった。
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21) 大韓帝国政府度支部建築所
日露戦争終結後の明治38年11月、日本は韓国政府と第二次日韓協約を締結、韓国外交権は日本に委任され、同年12月の勅令によって統監府及び理事庁官制を公布、統監には枢密院議長の伊藤博文が就任する。同40年第三次日韓協約が締結されると、韓国の内政は統監の指導下におかれ、日本人が官吏に任命されることとなった。度支部は韓国政府の行政機構の一部で内閣に属し、明治39年9月、度支部司計局の下に建築所が設けられたが、我国で言えば度支部は大蔵省、建築所は営繕部に相当する。その技師の多くは大蔵省臨時建築部技師を兼ね、妻木、矢橋らもその顧問として名を連ねていた。
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22) 武田五一(1872〜1938)
明治5年広島県に生まれる。第三高等学校を経て明治27年帝国大学に入学、30年7月造家学科を卒業し、直ちに大学院へ進んで音響及び採光について専攻する。32年7月工科大学助教授となり、翌年図学研究の為、英独仏に留学を命ぜられるが、留学中に京都高等工芸学校教授に転任、36年7月に帰国する。41年大蔵省臨時建築部技師を兼任、議院及び諸官衙建築調査の為欧米への出張を命ぜられて翌年帰国する。大正7年名古屋高等工業学校長となり臨時議院建築局技師を兼任、8年京都帝国大学工学部建築学科創設委員を経て、翌年教授となる。同14年営繕管財局技師を兼任するが、昭和7年官を辞す。同13年2月逝去。代表作に福島邸(明38)など。
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23) 海外視察
明治39年、衆議院に議事堂の建築を進めることへの建議案が提出される。臨時建築部は41年度予算に「議院及諸官衙調査費」を要求することを決め、まず関係技術者の、海外視察の為の調査費を要求、41年度予算において成立をみる。視察団は両院書記官長の他、臨時建築部技師の矢橋賢吉及び武田五一の4名であった。
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24) 小林金平(1867〜1942)
慶応3年12月江戸に生まれる。工手学校卒業後直ちに大蔵省臨時建築局に出仕、明治29年11月臨時葉煙草取扱所建築部技手となり、専売局技手、臨時税関工事部技手を兼務する。同34年4月官庁及び議院建築調査の為妻木とともに欧米に出張、同年11月に帰国する。37年4月臨時煙草製造準備局技師となり、6月煙草専売局技師を兼任、翌38年10月には臨時建築部技師、大正2年大蔵技師となり、同7年7月臨時議院建築局技師として工務課長を命ぜられる。さらに同12年10月臨時営繕局技師を兼任、14年営繕管財局官制公布により同局技師として監督課長を命ぜられる。臨時葉煙草取扱所建築部の川口直助、鎗田作造、沼尻政太朗とともに妻木四天王の一人と言われる。昭和17年歿。
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25) 丹羽鋤彦(1868〜1955)
明治元年名古屋に生まれる。工部大学校を経て22年7月帝国大学工科大学土木工学科を卒業、内務省土木監督署に出仕し24年内務技師となる。その後大蔵省に転じて32年臨時税関工事部技師、同土木課長となり、33年欧米出張を命ぜられて翌年帰朝する。39年大蔵省臨時建築部技師となり同横浜支部長及び第二課長を兼務、大正2年臨時建築部長心得を命ぜられ、大蔵技師として大臣官房臨時建築課長となる。同7年臨時議院建築局常務顧問、10年には東京市技師として道路局長となるが13年これを辞し、14年営繕管財局顧問、昭和4年会計検査院技術顧問に任ぜられる。内務省での木曽川、淀川及び最上川治水事業、大蔵省での横浜神戸港湾改良工事等にその業績を残す。昭和30年歿。
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26) 市来乙彦(1872〜1954)
明治5年鹿児島県に生まれる。29年帝国大学法科大学政治学科を卒業、同年高等文官試験に合格、大蔵省に出仕して司税官をはじめ大蔵書記官、主計局長、大蔵次官などを歴任する。大正7年臨時議院建築局官制発布とともにその長官となり、同年9月の議院建築競技設計審査員発表の時点ではその委員長であったが、まもなく勅選の貴族院議員となって辞任、同11年には加藤内閣で大蔵大臣をつとめた。翌12年日銀総裁、昭和3年東京市長などその後も要職を歴任、戦後参議院議員となったが昭和29年に逝去。
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27) 横河民輔(1864〜1945)
元治元年兵庫県に生まれる。明治23年7月帝国大学工科大学造家学科を卒業後、直ちに日本橋に建築事務所を開設する。25年三井元方嘱託及び東京工業学校講師となり28年三井元方入社、29年三井本店の鉄骨構造調査の為渡米し翌年帰朝する。36年三井を辞し横河工務所を開設、同年8月帝国大学工科大学講師として我国初の鉄骨構造の講義を行なう。大正6年議院建築調査委員、7年議院建築局常務顧問及び意匠設計審査員に任命され、同14年には建築学会々長に就任する。昭和18年横河工務所々長を辞し、同所は長男である時介及び中村伝治、松井貴太郎の共同経営となる。代表作に三井本館(明35)、帝国劇場(明44)、東京株式取引所(昭2)など。昭和20年6月逝去。
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28) 塚本靖(1869〜1937)
明治2年京都に生まれる。23年7月第三高等学校を卒業し帝国大学工科大学に入学、26年7月造家学科を卒業後大学院に進み、32年1月帝国大学工科大学助教授として建築学第2講座を担当する。同年5月文部省より英仏独三カ国への留学を命ぜられ35年帰朝、直ちに工科大学教授となる。43年には議院建築準備委員会委員、大正8年には東京帝国大学教授として工学部勤務を命ぜられ、引き続き第2講座を担当、翌9年工学部長、12年評議員、14年営繕管財局顧問を命ぜられ、15年再び工学部長となるが昭和4年辞して名誉教授となる。建築作品は少なく、「日光廟建築論」(東京帝国大学紀要工科第一冊第二号)など論文多数あり。昭和12年歿。
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29) 山下啓次郎(1867〜1931)
慶応3年鹿児島県に生まれる。明治9年上京、若松義塾、攻玉社、三田英語学校を経て16年東京大学予備門に入学、19年第一高等学校に転学。22年同校を卒業すると帝国大学工科大学造家学科に入学し、25年7月卒業、直ちに警視庁技師として巣鴨監獄建築掛を命ぜられる。30年司法省技師となり31年8月には内務省技師を兼任、以来全国の裁判所及び監獄建築の設計監督を担当する。34年欧米へ出張、監獄建築を調査して帰朝し、36年司法大臣官房営繕課長となる。大正6年8月議院建築調査会委員嘱託、翌年には臨時議院建築局常務顧問となって議院建築意匠設計審査に関わる。昭和5年勅任官を辞し翌6年歿。代表作は明治における5大監獄(千葉、奈良、石川、長崎、鹿児島)など。
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30)
議院建築の計画は仮議院が出来るたびに延期されていたが、明治24年2月貴族院書記官長金子堅太郎らは「議院建築に関する意見書」を発表し、その中で「その設計は、本邦は勿論、欧米の建築家に懸賞募集で求めよ」と唱えた。さらに26年5月、同様のものを総理大臣伊藤博文に上申したが、それに対して内務大臣であった井上馨は「外人のやったものは輸入物で国情に適せず、又日本人のみに限れば国内の建築家は競技に参加する為、別に立派な審査員を見出すことが困難である」として反対する。30年5月ようやく内務省に「議院建築計画調査委員会」が設置され、調査の為海外派遣費等の予算を提出したが、時期尚早であるとの理由から衆議院において否決される。さらに32年4月内務省に「議院建築調査会」が設置され、同会での審議結果として「議院建築の意匠は日本人に懸賞募集すること」と決議したものの機が熟せず34年11月に調査会は廃止。そして41年1月建築界の権威である辰野、塚本、伊東の三博士から「議院建築の方法について」という意見が発表された。つまり「議院建築を完成させる技術と学識は今や我国の建築家は充分に備えている。これらの中に意匠を懸賞募集すれば必ず立派なものが出来るはずである」というものである。また41年度から43年度にかけて調査費及び準備費として予算が成立し、41年5月に臨時建築部の矢橋、武田ら技術者を調査研究の為海外に派遣する一方、敷地の実測、地質調査及び全国的な石材、木材の調査が実施された。43年大蔵省に「議院建築準備委員会」が設置されると、臨時建築部長であった妻木は矢橋、木本、小林、大熊、福原、武田らに命じて計画を立案、調査研究を進めて翌44年1月計画案を決議する。この時妻木側の言い分は「優れた案を得るには優れた建築家の応募が必要であるが、優れた建築家は審査員にならねばならないから懸賞によるよりむしろ権威者が合議して立案するのが良い」というものであった。ここに競技設計採用を主張する辰野側と大蔵省での設計を実施させたいとする妻木側の、新聞、雑誌等マスコミを動員した争いが始まることになる。
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31) 古市公威(1854〜1934)
安政元年江戸に生まれる。開成所、大学南校を経て開成学校に入り明治8年官命によりフランスに留学、翌年「エコール・サントラル」に入学し同12年卒業する。さらに同年「巴里理科大学」に入学、翌年卒業して帰朝し、直ちに内務省土木局に出仕する。准奏任御用掛、東京大学理学部講師、内務技師を歴任、19年には工科大学教授兼工科大学長に任ぜられ、さらに内務省土木局長、逓信次官、逓信省総務長官、鉄道作業局長官等の要職を歴任する。39年大蔵省臨時建築部顧問を嘱託、43年議院建築準備委員会委員に任命、大正4年土木学会々長、同6年工学会々長に就任、7年臨時議院建築局顧問となり、またその間23年より貴族院議員に勅選される(〜大正13年)。昭和9年歿。
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32) 正木直彦(1862〜1940)
文久2年大阪に生まれる。明治25年東京帝国大学法科大学を卒業後、奈良県尋常中学校長、文部大臣秘書官、文部省視学官、第一高等学校教授を歴任、34年東京美術学校々長となって以来、美術教育界の中心人物としてその職に当たり、その後も広く美術界の諸般事業に関与した。大正7年臨時議院建築局顧問、のち営繕管財局顧問となる。昭和15年3月逝去。
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33) 曽禰達蔵(1852〜1937)
嘉永5年江戸に生まれる。明治6年工部省工学寮に入学、12年11月工部大学校造家学科第一期生として卒業し直ちに工部技手として営繕局に出仕、海軍兵学校建築掛となる。14年工作局に出仕、15年工部大学校助教授、19年帝国大学工科大学助教授となり、さらに海軍技師を経て23年呉鎮守府建築部長となるが、同年退官し三菱に入社、恩師コンドルを助けて煉瓦街の建設に当たる。39年三菱を退社して顧問となり、41年後輩中條精一郎と共同で曽禰中條建築事務所を開設する。大正7年より3期建築学会々長をつとめ同年7月臨時議院建築局顧問となる。昭和12年12月6日逝去。代表作として占勝閣(明治37)、慶応大学図書館(明45)、海上ビル(大7)、郵船ビル(大12)など。
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34)
議院建築に国産の建築材料を使用するにあたって、大蔵省臨時建築部は明治42年から45年にかけて木材及び石材の大規模な全国調査を実施した。木材については、明治42年度に関東、東海道及び関西方面における民有林、国有林、御料林についての主要樹種の調査を、翌43年度は前年度未了の調査継続と、装飾材及び東北地方における主要樹種の調査を行なった。また調査にともなう各種試験については、農商務省山林局林業試験所及び東京帝国大学農科大学に依嘱して行なわれた。一方、石材については、42年度に茨城、兵庫、香川、岡山及び広島各県下の花崗岩と美濃赤坂の石灰岩について調査を行ない、43年度は前年度の残部及び東北、中部日本におけるものを、また44年度以降は安山岩、凝灰岩及び砂岩について調査を行なった。試験は東京工業試験所、東京高等工業学校及び大蔵省分析所に依嘱されたが、全体の実地的調査については東京帝国大学教授理学博士脇水鐵五郎を顧問、理学士小山一郎を主査として行なわれた。そして大正5年に妻木が亡くなり、同7年6月臨時議院建築局が発足、工営部長に矢橋が着任するが、同局は小山一郎に依嘱して再度実地調査を行ない報告書をまとめている。
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35)
募集規定の中では、やむを得ない場合以外は建築材料に国産のものを使うことが決められたが、矢橋、大熊の部下であった下元連の回想によれば、大理石はすべて国産(ただし、当時日本の植民地であった朝鮮産のものを国産とすれば)であるが、ステンドグラス、メールシューター、錠前などは外国製であったという。
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36) 片山東熊(1853〜1917)
嘉永6年山口県萩生まれ。明治6年工部省工学寮に入り12年工部大学校造家学科第一期生として卒業、直ちに工部省営繕局に出仕、14年有栖川宮邸建築掛を命ぜられる。15年室内装飾調査の為渡欧し17年帰朝、工部省御用掛から太政官御用掛に転じ外務省御用掛を兼任、北京公使館建築の為清国へ出張し19年帰朝する。さらに同年皇居御造営事務局に出仕し直ちにドイツへ出張して20年帰朝、21年内匠寮技師となり工科大学造家学科図画講師を嘱託される。30年東宮御所御造営調査の為渡欧し31年帰朝、同御造営局技監となり、さらに32年議院建築調査委員に任ぜられて渡欧し同年帰朝、35年東宮御所御造営の為欧米出張し36年帰朝、翌37年には内匠頭に任ぜられて文字通り宮廷建築家としての最高の地位についた。大正4年宮中顧問官となるが、同6年10月23日逝去。勲一等旭日大綬章。宮廷建築家として生涯関わったものは数多いが、代表作としては、帝室奈良博物館(明27)、帝室京都博物館(明28)、東宮御所(明42)、表慶館(明42)など。
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37) ジョサイア・コンドル(1852〜1920)
1852(嘉永5)年ロンドンに生まれる。1865(慶応元)年ベッドフォード商業学校に入学し1868(明治元)年卒業、翌年ロジャー・スミスの建築事務所で修業しながらサウス・ケンシントン美術学校及びロンドン大学で建築学を学ぶ。1873(明6)年ウィリアム・バージェス建築事務所で助手として働くが1875(明8)年同事務所を辞め、翌1876(明9)年英国王立建築家協会主催の懸賞設計競技で一等に入賞、ソーン賞を獲得する。同年10月日本政府と5ヶ年の雇用契約を結び、フランス、イタリアを経て日本へと向かう。1877(明10)年1月に来日し、工部省営繕局顧問、工部大学校造家学科教授となり、我国に初めて西欧建築学の教育制度を導入、日本人建築家を育て、明治12年11月には辰野金吾ら第一期生を送り出した。翌13年皇居造営に参画、また14年には日本画の絵師河鍋暁斎に弟子入りして「暁英」と名乗る。15年雇用期限を延長、工部省営繕局雇となり工部大学校教授を兼務、19年2月臨時建築局雇、4月帝国大学工科大学講師となり、5月には造家学会名誉会長に推薦される。21年工科大学講師を辞して設計事務所を開設、23年官を辞し三菱会社顧問として丸の内煉瓦街の計画を担当、この頃から設計活動に専念する。明治43年12月、建築学会講演会において、議院建築問題に関連し「公共建築に関する私見」と題して講演する。大正9年4月、建築学会が多年の功労に対して表彰式を行なうが、6月21日逝去。享年67歳。代表作に鹿鳴館(明16)、三菱一号館(明27)、岩崎久弥邸(明29)など。
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38) 分離派建築会
大正9年2月1日、東京帝国大学建築学科卒業直前の学生が、大学構内第2学生控所で同人習作展を開催した。当初のメンバーは、石本喜久治、堀口捨己、滝沢真弓、森田慶一、山田守、矢田茂の6名。のちに蔵田周忠、山口文象、大内秀一郎が加わる。我国最初の近代建築運動であり、「我々は起つ。過去建築圏より分離し、総の建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。 」で始まる宣言文は有名であるが、その活動は作品展と講演会がほとんどであり、昭和3年9月の第七回作品展の頃でほぼ終わった。分離派建築会は、明治以来東大建築アカデミーに浸透してきた西欧建築様式からの分離を試みようとしたものであったが、最終的にはヨーロッパ表現派の影響を受けることになった。
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39) 佐藤功一(1878〜1941)
明治11年栃木県生まれ。第二高等学校を経て明治36年7月東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、直ちに三重県技師となるが同40年10月病気の為休職、翌41年宮内省内匠寮御用掛となる。42年1月早稲田大学建築学科創設準備の為欧米各国を巡歴、43年8月帰朝、9月より建築学科主任教授となり、主として西洋建築史及び住宅建築を担当する。大正7年設計事務所を開設、その後東京女子高等師範学校講師、帝都復興院嘱託、日本女子大学教授等を歴任、昭和3年の建築会館懸賞図案審査員をはじめ、各種設計競技の審査員をつとめたが昭和16年6月逝去。代表作に早稲田大学大隈講堂(昭2)、群馬県庁舎(昭3)、市政会館及日比谷公会堂(昭4)など。
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40) 佐野利器(1880〜1956)
明治13年山形県に生まれる。明治33年第二高等学校を卒業し東京帝国大学工科大学建築学科に入学、同36年7月卒業して大学院に進み、同大学講師を嘱託されて鉄骨及び鉄筋コンクリート構造学を専攻、39年5月助教授となる。44年建築学研究の為欧米へ留学、大正3年4月に帰国し翌4年3月論文「家屋耐震構造論」によって学位を受ける。同7年7月臨時議院建築局技師を兼任、8月工科大学教授、翌8年東京帝国大学教授となり、工学部で建築学第3講座を担当。その後宮内省内匠寮工務課長、帝都復興院建築局長を歴任、同13年3月には東京市建築局長となり、また日本大学工学部長、建築学会々長、合資会社清水組副社長、日本工学会理事長などを歴任した。昭和31年12月逝去。代表作に丸善(明42)など。
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41) 小島栄吉(1886〜?)
明治19年神奈川県に生まれる。明治44年7月東京帝国大学工科大学建築学科卒業後直ちに大蔵省臨時建築部建築事務を嘱託され、大正元年山口県建築事務嘱託を経て同3年12月大蔵技師として大臣官房臨時建築課に勤務、さらに7年6月臨時議院建築局技師となり工営部調査課勤務を命ぜられる。12年10月臨時営繕局技師を兼任、14年5月の官制改正によって営繕管財局技師として工務部勤務となり、翌15年5月議院建築調査の為欧米各国へ出張を命ぜられ昭和2年3月に帰国する。同6年5月営繕管財局工務部監督課長として議院建築の工事長をつとめ、同12年工務部第三、第二技術課長を経て14年7月営繕管財局工務部長となる。同17年11月大蔵営繕技監となるが翌18年3月退職。
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42) 下元連(1888〜1985)
明治21年福岡県に生まれる。明治44年7月第一高等学校を卒業し東京帝国大学工科大学建築学科に入学、大正3年7月卒業し直ちに大蔵省大臣官房臨時建築課雇に任ぜられる。同6年大蔵技師となり、7年臨時議院建築局技師、12年には臨時営繕局技師を兼任する。14年営繕管財局工務部工務課技師となり第二係長を命ぜられ、内閣、大蔵省、内務省、会計検査院等の建築設計を担当する。昭和4年博物館建築調査の為欧米へ出張、翌年帰国し同12年工務部第一技術課長を命ぜられる。その後大蔵省営繕技監、建築学会副会長、戦災復興院営繕技監を歴任し、23年建築事務所を設立、30年からは工学院大学教授となり施工、材料の講座を担当する。昭和59年10月、95歳で逝去。代表作に内閣総理大臣官邸(昭3)など。
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43) 吉武東里(1886〜1945)
明治19年大分県に生まれる。明治40年京都高等工芸学校図案科を卒業後、恩師武田五一の推薦で宮内省内匠寮技手となり、同44年5月の日本大博覧会敷地設計競技では、弱冠25歳で全155案の中から一等に入選し、また東宮御所御造営にも参加、装飾意匠に手腕を発揮した。その後大正8年に議院建築設計競技入選の才能を認められて大蔵省臨時議院建築局に出向、矢橋の下で小林正紹とともに議院建築の意匠製図を担当し、実施設計の主任格として特に内部のデザインでは大きな役割を果たす。議院本建築までに三度の木造仮議院が建てられているが、大正14年12月に竣工した第三代仮議院のプランは、上司矢橋の指示により吉武が主任となってまとめたと言われる。昭和20年歿。
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44) 伊東忠太(1867〜1954)
慶応3年山形県米沢市に生まれる。第一高等学校を経て明治25年7月帝国大学工科大学造家学科を卒業、大学院に進み翌26年「法隆寺建築論」をまとめる。31年東京帝国大学工科大学講師を嘱託され、34年助教授となる。35年3月建築学研究の為、中国、インド、トルコに留学して38年6月帰国、工科大学教授となる。大正8年臨時議院建築局常務顧問、14年営繕管財局顧問などを歴任、昭和3年東京帝国大学を退官し早稲田大学教授となる。その後東京工業大学講師、仙台高等工業学校講師などをつとめたが、昭和29年4月、86歳で逝去。代表作に明治神宮(大9)、大倉集古館(昭2)、築地本願寺(昭9)など。
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45) 小林政一(1891〜1973)
明治24年12月、茨城県に生まれる。第二高等学校を経て、大正5年東京帝国大学工科大学建築学科卒業。直ちに大学院に進み鉄筋コンクリート構造学を専攻、佐野利器の指導を受ける。議院建築局嘱託を経て、大正8年明治神宮造営局技師となり、コンペによる外苑の聖徳記念絵画館(当選者小林正紹)の実施設計などを担当、東京高等工業学校教授、建築学会会長などをつとめるが、昭和26年には東京工業大学を退官、その後千葉大学工学部長、同学長、武蔵工業大学教授などを歴任した。昭和48年12月歿。
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46) 営繕管財局官制
大正14年5月25日勅令をもって公布施行された営繕管財局官制は、それまでの国有財産整理局官制及び臨時議院建築局官制の発展的解消という形で動き始める。職員は前2局及び大蔵大臣官房臨時建築課の職員をもって充てられた。営繕管財局分課規程(大正14年5月26日大臣通達)によりその概略を記すと次の通りである。長官は大蔵次官が兼任、その下に総務部と工務部を置き、総務部長は理事で、長官の命を受けて局務を掌理し、工務部長は技師で、上官の命を受けて技術を掌ることとなっていた。形の上では総務部と工務部は対等に置かれている様に見えるが、実際には、工務部は総務部に隷属していた。この様な制度は当時の官庁全体に見られたことで、技術官の地位は極めて低かったのである。総務部の下には総務課と国有財産課を置き、工務部の下には、主として設計を担当する工務課と、工事を担当する監督課が置かれた。また官制が施行された当初の工務部長は矢橋賢吉、工務課長が大熊喜邦で、監督課長は小林金平であった。昭和5年には「営繕統一に関する閣議決定」がなされ、神社、港湾、道路、陸海軍の建物、囚人を使役する刑務所、航空路設置、一件1万円以下の小新営及び修理、その他特殊の事情があり大蔵大臣と協議したものを除いて、すべての営繕を所掌することになった。昭和18年管財局は廃止されるが、その流れは昭和20年11月に設置された戦災復興院を経て、昭和23年7月設置の建設省営繕へと続いている。
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47) 池田譲次(1883〜1970)
明治16年東京に生まれる。第一高等学校を経て明治40年7月東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、直ちに大蔵省技手として臨時建築部に出仕、42年大蔵技師となり神戸出張所に勤務、神戸税関陸上設備工事を担当、大正10年欧米各国へ出張し翌11年帰朝する。その後神戸税関庁舎の設計監督に従事し、昭和2年営繕管財局技師として工務課長、同10年工務部長となり、この間内務省、大蔵省、文部省、会計検査院、特許局等中央諸官衙の他、大蔵省所管の各省営繕工事の設計監理に関わる。14年8月官を辞し満州房産公司に入社、副社長を経て社長となり、北支において住宅の建設経営にあたった。昭和45年4月逝去。
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48) 小林正紹(1890〜?)
明治23年11月東京生まれ。明治42年2月工手学校建築学科を卒業する。同45年の大阪市公会堂指名競技で矢橋は三等に入選するが、当時臨時建築部第一課長だった矢橋に協力したのは咲寿栄一と小林であると言われ、また大正7年には大蔵技手として「聖徳記念絵画館及び葬場殿址建造物」設計競技に参加、応募総数156点の中から東大出身の建築家たちをおさえて一等に入選し、その実力が認められることとなった。議院建築の実施設計は営繕管財局工務部工務課で行なわれたが、工務課には第一から第四までの係があり、そのうち第一製図係が議院建築専門の担当であった。係長は小島栄吉で、実際にはその下で吉武東里と小林が設計を担当したと言われている。
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49)
『建築雑誌』第37輯 第444号「福井県庁舎新築工事概要」
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50)
拓銀小樽支店は明治34年11月4日に開業し、小樽区色内町29番地において営業を続けてきたが、同38年店舗を焼失、翌39年12月に新築店舗が竣工した。煉瓦造2階建、79坪余の建物で、創建時の外壁には軟石が貼られ装飾豊かなデザインであったが、その後、銀行、問屋などを経て昭和49年より潟Iグラの所有建物となっている。現在は、外壁がモルタルやタイルなどで改築されているが、周辺の歴史的建造物が次々と姿を消して行く中で、中央の建築家の作品として是非とも保存、復元し歴史的景観要素として再生利用されることを期待したい。
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51) 伊藤亀太郎(1863〜1944)
現伊藤組の開祖。文久3年越後国三島郡出雲崎町に生まれる。父栄吉は明治5年頃から北海道に渡っては建築の下請けをし、次男亀太郎は父祖の業を継ぎ、14歳で函館の金泉栄吉に弟子入りをし、徒弟奉公の後、明治15年実家へ戻った。その後、同18年家族ともども函館に移るが、翌19年父栄吉は55歳で亡くなってしまう。亀太郎は小樽手宮の小林茂三郎の下で働き、帳場となって札幌出張所を任され明治26年5月に独立、建築請負業を始める。大正8年現在地に移るが、病気で目が見えなくなり、支配人田中銀次郎と長男豊次に将来を託し、昭和19年6月、82歳で逝去した。代表作に函館区役所、ジョン・バチェラー邸、小樽中央駅、手宮高架桟橋、札幌郵便局、札幌独立教会、北海タイムス社など。
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52) 小林多喜二(1903〜1933)
明治36年秋田県に生まれる。同40年一家揃って小樽市若竹町に移住し、大正5年庁立小樽商業に入学、さらに同10年小樽高商に入学し、在学中から「新興文学」に入選するなど文学活動を始める。大正13年4月、高商を卒業した多喜二は竣工後まもない北海道拓殖銀行小樽支店に就職、初任給70円の生活の中、庁立商業時代の友人たちと同人誌『クラルテ』を発行、その編集責任者となる。昭和4年「蟹工船」を『戦旗』5、6月号に、さらに「不在地主」を『中央公論』11月号に発表するが、これが直接の原因となって拓殖銀行を解雇される。その後執筆活動も盛んになるが、逮捕、釈放を繰り返され、昭和6年日本共産党に入党、同8年2月20日、東京赤坂の路上で街頭連絡中に逮捕され、同日夕刻、築地署において警視庁特高課員の拷問により虐殺された。享年29歳4ヶ月という若さだった。
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53) 荻原貞雄(1897〜?)
明治30年長野県生まれ。大正5年4月東京高等工業学校に入学、同8年建築科を卒業する。卒業後、大蔵省営繕管財局で霞ヶ関中央官庁街第一号となる警視庁庁舎の設計を担当、上司である矢橋より終始指導を受ける。さらに陸軍技師、安藤建設を経て昭和33年下元建築事務所に入り、その後荻原建築事務所を開設した。
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54) 松崎萬長(1858〜1921)
安政5年京都生まれ。明治4年12月岩倉具視を団長とする遣欧使節団に、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などのメンバーとともに留学青少年として同行。アメリカからロンドン、パリを経て翌5年3月ベルリンに到着、その後松崎はベルリン工科大学で建築学を修め、同17年12月帰国。19年2月政府は臨時建築局を開設、松崎は事務官として入局し同年5月建築局技師となるが、同21年3月官を辞し、同年12月大日本建築会社造家部長となる。七十七銀行本店(明36)などを設計した後、37年8月から約一年間臨時煙草製造準備局臨時雇となるが、同40年台湾総督府鉄道局に招かれ、台湾鉄道の建築家として鉄道ホテル、基隆駅、新竹駅などの作品を残す。帰国してまもない大正10年2月急逝。
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55) 渡辺譲(1855〜1930)
安政2年江戸に生まれる。明治6年工部省工学寮に入り、同13年5月工部大学校造家学科を卒業、直ちに工部省営繕局技手となる。18年内務省技師補、翌19年臨時建築局一等技手となり、同年10月妻木頼黄、河合浩蔵とともにドイツに留学、20年12月臨時建築局技師となる。21年6月ヨーロッパ各国を視察して帰国、直ちに建築局工事部長となるが22年これを辞し、翌23年コンドル設計の海軍省建築主任として現場を指揮、清水組技師長を経て27年3月海軍技師となる。33年4月には欧米出張を命ぜられて翌年帰国し、舞鶴鎮守府建築科長となる。41年海軍経理学校教官を兼務、大正7年本官を辞し同校教授を経て浅野総一郎氏建築顧問となる。代表作に帝国ホテル(明23)など。昭和5年逝去。
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56) 河合浩蔵(1856〜1934)
安政3年江戸に生まれる。明治15年工部大学校造家学科を卒業、工部省営繕局技師となり皇居御造営事務局出仕を命ぜられる。同18年の工部省廃止にともない翌19年設置の臨時建築局に移り、妻木頼黄、渡辺譲とともにドイツに留学、21年帰国し司法省建築主任となり現場を指揮する。29年大阪控訴院及び大阪地方裁判所庁舎の設計監督嘱託、さらに33年には神戸地方裁判所庁舎の設計見積を依嘱され、同37年の完成まで工事に携わる。翌38年4月神戸に建築事務所を開設し、以後昭和2年の事務所廃業まで神戸を中心に創作活動を行ない、多くの作品を残す。昭和9年10月神戸にて死去。代表作に神戸地方裁判所(明37)、三井物産神戸支店(大7)など。
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57) 滝大吉(1861〜1902)
文久元年大分県に生まれる。明治16年工部大学校造家学科を卒業後、警視庁御用掛を経て太政官会計局に勤務し、明治19年4月臨時建築局二等技手となる。しかしドイツ留学の選にもれて翌年8月官を辞し、10月帝国工業会社、21年明治工業会社建築部長を経て、23年4月大阪で建築事務所を開設する。同年6月「工業夜学校」を主宰、『建築学講義録』を著すが一年と続かずに上京、24年3月陸軍省に入り、のち臨時陸軍建築部主任技師となり陸軍営繕の基礎をつくる。代表作として参謀本部庁舎(明22)など。明治35年11月逝去。
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58) 吉井茂則(1857〜1930)
安政4年高知に生まれる。明治4年2月官命によりイギリスへ留学し、帰国後工部大学校に入学、同16年5月同校造家学科を卒業する。18年4月陸軍省御用掛となり、20年12月には臨時建築局技師に任ぜられ帝国議院の建築主任となる。24年6月内務技師、翌25年9月逓信技師となり、30年11月には鉄道技師を兼務、34年8月欧米各国へ留学し翌年5月に帰国、36年12月逓信省経理局営繕課長を命ぜられる。大正3年10月依願免官。昭和5年3月病に罹り、同年10月食道癌のため74歳で逝去。代表作に逓信省庁舎(明43)など。
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59)
議院建築の計画そのものは明治19年にまで遡るが、実際現地において着手したものとしては、明治41年8月18日より一ヶ月間行なわれた実地測量であろう。さらに10月18日より翌42年9月19日までボーリングを含めた地質調査が行なわれている。なおこの調査は臨時建築部によって実施され、妻木部長、矢橋技師の指導の下、小林、大熊両技師が主任となって詳細に行なわれた。その後43年9月から10月にかけて耐圧試験が行なわれ、あわせて42年から木材調査、43年から石材調査が行なわれたのである。
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60)
明治23年11月竣工の初代仮議事堂に始まり、翌24年10月の第二代仮議事堂、そして大正14年12月の第三代仮議事堂を経て、昭和11年11月に現国会議事堂が完成した訳であるが、実はもう一つ、明治27年10月、広島に臨時仮議事堂が建設されている。明治27年8月に勃発した日清戦争により、我国の政治、軍事の中心は大本営の置かれた広島に移り、9月22日「第7回議会を広島に召集する」との詔書が公布され、仮議事堂が必要となった。内務省土木局技師の妻木は、大迫直助、湯川甲三、沼尻政太郎の三技手をともなって広島に向かい、9月25日に到着、27日までに基本設計を終え、30日予算承認とともに着工、10月14日議会開会前日に完成させた。木造平屋板葺きの洋風建物で、2913uという議事堂としては小規模のものであったが、両院議場、便殿の整った立派なものであった。
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61) 久留正道(1855〜1914)
安政2年江戸生まれ。明治6年工部省鉱山寮を経て翌7年同工学寮に入る。明治14年5月工部大学校造家学科を卒業、直ちに工部省営繕局に勤務、同18年同省廃止とともに内務省土木局営繕課に勤務、さらに同20年、山口半六とともに文部省会計局に勤務する。その後非職となるが、同25年、病気の為文部省を辞職した山口の後任として文部技師に復帰、会計課建築掛長に着任、文部省営繕二代目指導者となる。同年シカゴのコロンブス世界博覧会における日本館建築工事監督を嘱託され渡米、翌26年に帰国。また第四回内国勧業博覧会工事監督などを嘱託、同33年4月文部大臣官房建築課初代課長となり、以後第五回内国勧業博覧会建築工事、学習院校舎新築等の設計監督を嘱託されるが、同44年11月病気により依願免官、大正3年58歳で逝去。
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62)
大阪市公会堂懸賞競技設計は、明治44年8月に設立された財団法人公会堂建築建設事務所によって実施されたが、建築顧問を委嘱していた辰野金吾の意向によって、17名の建築家による指名競技設計とされた。指名された建築家は、伊東忠太、中條精一郎、大澤三之助、大江新太郎、岡田信一郎、葛西萬司、片岡安、武田五一、田辺淳吉、宗兵藏、塚本靖、長野宇平治、野口孫市、矢橋賢吉、古宇田實、森山松之助、鈴木禎次という顔ぶれであったが、このうち葛西、野口、森山、鈴木の4名については期限までに提出がなく、結局13名の設計案の中から岡田信一郎の案が最優秀案として選ばれた。審査は、応募者全員が審査に加わるという当時としても珍しい互選方式で行なわれたが、この審査方法については、矢橋本人が『美術新報』(大正2年1月号 画報社発行)の中で次のように述べている。″第一審査の方法が互選すると云ふのだから外国にもない例で、一方から云えば、審査の上では、出した各自が、各々其局に当って精しく調べて掛るから、細精な点迄も苦心をしてる所は宜く分る。つまり比較的少ない時間で細かい点迄も見る事が出来るのはよいが、何にしろ自分等が設計して自分が審査するのだから、少し遣りにくい点もある。自分が苦心した者には自信があるから、自分の者を造り上げて、直ぐ他の人の案を審査すると云ふのは、互選の一の欠点であらうと思う。第三者から見ると悪い者でも自分には宜いと思ってる左様な頭の状態で他の案を審査する故に公平を失する点も有ると思ふ。当事者がやると多少近視眼的の審査をする。又自分が仲間の事だから又遣りにくい点がある。勿論、名誉を重じてる人故不公平や情実はないが遣り悪いとは皆も考えてるだろうと思ふ。″
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63) 咲寿栄一(1884〜1914)
明治18年4月、横浜電気且ミ長で実業家の上野吉二郎の長男として東京に生まれる。神奈川県立一中を経て第三高等中学校を卒業し、東京帝国大学工科大学建築学科に入学、明治42年7月に卒業する。その後大蔵省臨時建築部嘱託を経て、大正2年7月大蔵技師に任ぜられるが、翌3年7月病没。代表作に上野吉二郎邸(大2)など。
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64) 新開新太郎(1870〜1945)
明治3年福井県生まれ。16歳の時土佐高知で大工職について2年間徒弟奉公した後、明治21年北海道小樽に渡る。その後小樽で名高い大虎加藤忠五郎のもとで修業、37年腕を認められて大虎建築部札幌出張店主任、さらに札幌支店主任となる。40年大虎名義で独立、札幌区役所新築工事が発注されると赤字覚悟で仕事をとったという。地元札幌の大工から反発もあったが、41年には札幌に初めて大工組合を設立、初代組合長となる。その後大正11年6月には北海道土木建築請負業組合連合会の組合長となり、また二代目地崎宇三郎や伊藤豊次(亀太郎長男)とも親交が深かった。昭和13年土建協会長を伊藤豊次に譲り、広島村で果樹園を経営したが、昭和20年8月死去。代表作に拓銀旭川支店(大2)、今井呉服店(大5)など。
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65)
『建築雑誌』第31輯 第364号 なお『武田博士作品集』(昭和8年 武田博士還暦記念事業会)では「設計主任」 となっている。
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66)
『建築家下元連 九十六年の軌跡』所収 「営繕回顧録」
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67)
同上
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68)
同上
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69)
岩崎組は県庁舎と隣接する警察庁舎とを一括受注したため、大正4年2月の竣工とは警察庁舎も含めたものと考えられる。
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70)
『大日本博士録』に矢橋の業績の一つとして記載されている。
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71)
『建築雑誌』第41輯 第498号 及び 『大日本博士録』第五巻 工学博士之部
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72)
『建築雑誌』第41輯 第498号
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73)
『建築雑誌』第41輯 第498号 なお「度支部建築所」については 註21を参照。
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74)
『大林組70年略史』には大正4年10月竣工とあり、大正3年7月と若干の食い違いがある。当初より予定されていた大正天皇即位の御大典が、大正3年4月の皇太后登遐により延期されたため、一般旅客用部分の工事は予定通り進め、内装、設備工事の一部及び貴賓室は一層厳密な施工をすることとし、そのすべての工事が完了したのが大正4年10月であった。この辺の事情については『京都停車場改良工事紀要』(大正6年 西部鉄道管理局)に詳しい。
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75)
合併庁舎には福岡県港務部、陸軍運輸部門司出張所、熊本逓信局海事部、長崎地方海員審判所、植物検査所門司支所、門司郵便局外国郵便課などが門司税関とともに入った。
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76)
ただし、復旧工事の着工時期が昭和初年に集中していることを考え合わせると、矢橋の関与があったとしても設計途中で亡くなっている可能性が高く、どの程度関与できたかという部分については不明なところが多いために確証はない。
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77)
『横浜・都市と建築の100年』(平成元年 横浜市)によれば、新港埠頭赤煉瓦倉庫(明44)の設計は、臨時建築部横浜支部建築掛長の秩父忠鉦であると推測している。
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78)
大蔵省営繕管財局工務部工務課はさらに四つの係に分かれてそれぞれ分担が決まっており、第一製図係が議院建築専門、第二が内閣、大蔵省、内務省、会計検査院、第三が陸海軍、商工省、農林省で、第四は逓信省、文部省などであった。
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79)
『営繕管財局営繕事業年報』第二輯 上巻 (昭和11年 営繕管財局)の請負工事一覧によれば、昭和4年3月にペヒシュタイン社製ピアノ一台が納入、日本楽器製造鰍ノ4,300円が支払われている。
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80) 目賀田種太郎(1853〜1926)
嘉永6年静岡に生まれる。旧幕臣で勝海舟の娘婿。明治3年大学南校に入り、同年10月よりアメリカに留学する。5年9月にはハーバード大学法学部に入学し、7年に卒業して帰国、直ちに文部省に出仕する。その後司法省代言人を経て、16年大蔵少書記官、19年大蔵省主税官、主税局監査課長、地租課長、20年主税局調査課長等を歴任、24年7月横浜税関長となり、27年より主税局長を兼任、32年5月には臨時税関工事部長を兼任した。37年から大正12年まで貴族院議員(勅選)となり、同12年9月に枢密顧問官となるが同15年9月逝去。
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