関係作品

 矢橋自身が設計、または設計に関与したと思われる作品はかなりの数に上ると見られるが、明治29年の大蔵省入省以来、昭和2年に亡くなるまで、その一生を官庁営繕に捧げたという点から考慮すると、官庁、中でも大蔵省に関連のある施設等の作品が大半を占めるのは仕方がないことであろう。ただ当時は地方における営繕機構の設計力の不足からか、一応地元の建築技師が設計を担当し、中央の建築家が様々な形で顧問として嘱託され参加するということがごく一般的に行われていたため、矢橋本人も実際にいくつかの地方建築を手がけており、それらの一部は現存している。
 また、矢橋によって設計されたとする大蔵省関連の施設については、彼の在任した部署で設計されたことが確かであるとしても、彼の立場から考えると、自ら設計を行ったのか、あるいは部下に指示して設計をさせたのかという点が明確ではなく、そのすべてのデザインを彼に帰属させることはできない。あくまで彼の他の作品に共通する意匠を見出すことができるかどうかがその判断材料と言えなくもないが、官庁建築という性質から考えると、一見して彼自身の設計とわかる特徴的なデザインを期待すること自体が難しいのではないかと思われる。
 したがって、これら作品に関する部分のレポートについては、今後の確認作業などいくつかの課題を残すことになるが、ここではあくまでも主要な作品の紹介ということにとどめておきたい。
 なお作品については便宜上、

    A. 複数の文献等により矢橋自身が設計したと思われるもの
    B. 直接設計したかどうか不明であるが顧問等として関与したもの
    C. 現時点では設計に関与した可能性があるとしか言えないもの

の三つに分類することとし、 A、Bについては、その記述を竣工年代順とした。



[A-01] 長崎税関監視部庁舎

 矢橋は明治27年7月に工科大学造家学科を卒業すると、直ちに長崎税関監視部庁舎の設計監督を行なっているが、おそらく文献資料等で散見できる最初の仕事であろうと思われる。
 『建築雑誌』に記載された矢橋の経歴にも、「 造家学科ノ業ヲ卒ユルヤ直ニ官途ニ就キ建築ニ其ノ殊能ヲ伸ブ同年長崎税関ノ監視部庁舎新築設計及ビ監督ヲ依嘱セラレ 」とあり、まず間違いのないものと思われるが、その詳細については不明な部分も多い。明治26年4月、税関分課規定によってはじめて監視部が設置され、同28年3月には煉瓦造2階建瓦葺、建坪65.7坪の監視部庁舎が竣工している。建築費は10,919円30銭であった。
 明治29年、矢橋は臨時葉煙草取扱所建築部技師として大蔵省に入ったことになっているが、明治27年7月10日の工科大学卒業から同29年10月27日の大蔵省入りまでの約2年間については、ごく一部の資料に「大阪土木会社技師長」という記述があるが不明瞭な部分も多く、今後の課題としたい。

[A-02] 福岡農工銀行

 矢橋の設計したものとしては時期的にも早いもので、明治32年9月に着工、同33年3月に竣工した。工費は一万三千余円。階下は営業室・頭取室・公衆室・応接室・金庫・宿直室、また階上には総会室を設け、前面三階塔部にも応接室が用意され、後部に設けられた6坪の二階建土蔵とは渡廊下で連絡されていた。金庫は煉瓦二枚半積、天井・床は共にコンクリート打ちとし、入口は石綿入鉄扉を採用。行員入口は公衆用と区別され、小使室・湯沸室等火気を使用するところは行舎と隔離するなど、細部にわたって綿密に計画されたものであった。大蔵省銀行局発行の『銀行総覧』によれば、明治31年3月に設立され同年5月に営業開始、設立者は不詳。本店所在地は福岡市博多行町で、大正10年11月、日本勧業銀行と合併した。

[A-03] 扶桑銀行

 「福岡農工銀行」とともに初期の作品と見られ、明治35年7月の竣工である。矢橋の訃報記事(『建築雑誌』vol.41 no.498 )に、彼の関係した建築物として「扶葉銀行」とあるが、おそらく「扶桑銀行」の誤りであろう。
 資料によれば、高島嘉右衛門らが中心となり、資本金200万円をもって明治33年7月に設立され、同年9月に開業している。本店は東京府日本橋区呉服町に置かれたが、明治末年に破産して大正3年9月「神国銀行」と改称し店舗も数度移転するなど、その後の沿革については不明な部分が多い。

[A-04] 北海道拓殖銀行本店

 北海道拓殖銀行は、明治33年の「北海道拓殖銀行法」に基づいて北海道の開発を目的とする特殊銀行として設立された。創業は明治33年4月である。
 拓銀と矢橋との関わりは深く、『建築雑誌』等の資料にも作品名として「北海道拓殖銀行本店及各支店」とあり、この本店以外にも旭川支店、小樽支店(明治)、小樽支店(大正)、函館支店、東京支店などがあげられる(いずれも後出)
 本店は、当初札幌区大通東1丁目の既存木造建物で営業、明治41年1月に矢橋の設計による新社屋の工事に取りかかり、明治42年4月に竣工した。大倉土木組の施工による木骨石造2階建(一部3階建)、延べ362坪(1,194 u)の重厚なルネッサンス風の建物で、左右対称をくずしたデザインが特徴であったが、大正8年6月に2号館、昭和13年11月に3号館を増築し、ほぼ今日の規模に近いものとなった。しかし昭和34年に現店舗を新築するため取り壊し、建物の一部を同行荒井山研修所として移築、現在に至っている。

[A-05] 北海道拓殖銀行函館支店

 北海道拓殖銀行函館支店の開業は明治38年4月であるが、同40年8月25日の函館大火によって旧店舗が焼失したため、函館区船場町22番地に新店舗を建築し、同42年5月に竣工した。木造2階建、126坪余の営業場であったが、その外観は直前に竣工した札幌本店とデザイン的にも共通する部分が見受けられる。なおこの店舗も、大正10年4月14日の函館大火によって焼失、同12年10月、同じ場所に煉瓦造2階建の新店舗が建築され、昭和63年まで残っていたものの、市の歴史的景観条例発効直前、マンション建築のために取り壊された。

[A-06] 北海道拓殖銀行東京支店

 北海道拓殖銀行東京支店は明治38年3月に東京出張所として設置され、4月19日には支店に昇格して開業、明治42年12月20日、東京市日本橋区元四日市町1番地に店舗を新築して移転した。このときの店舗が矢橋の設計による写真の建物で、現時点では建築概要など詳細は不明であるが、ほぼ同時期に竣工している札幌本店および函館支店と比較しても、デザイン的にかなり共通する部分が見受けられる。
 大正12年の関東大震災では惜しくも焼失、その後数度の移転を経て、昭和30年には丸ノ内支店となり、現在に至っている。

[A-07] 千葉県庁舎・県会議事堂

 千葉県庁舎及び県会議事堂の新築は、4ヶ年継続事業として明治39年の県議会において可決され、総工費343,070円で明治41年5月に着工、45年5月に竣工した。県庁舎としては明治期最後のものである。煉瓦造3階建、690坪余のルネッサンス式による建物で、前面が庁舎、後面を県会議事堂としてその間に中庭を設け、正面の大階段と大きなドームのある屋根が特徴であった。
 矢橋は明治40年にその設計監督を嘱託され、現場主任には、同年工科大学を卒業し翌41年7月より千葉県技師となった久野節が当たった。
 なお、大蔵省臨時建築部(担当 村井三吾)の設計によりほぼ同時期に竣工した大阪中之島税務署の建物も、デザイン的に非常に似たものとなっている。

[A-08] 福井県庁舎・県会議事堂

 設計は矢橋賢吉と桑田正一、工事監督は工手学校出身の八島震である。
 桑田は工科大学建築学科を大正5年に卒業した矢橋の後輩であり部下であるが、ここでは矢橋に協力したと見るべきであろう。
 本庁舎の着工は大正10年10月、議事堂の着工が大正11年4月で、ともに大正12年4月の竣工。本庁舎、議事堂とも鉄筋コンクリート構造で3階建、工費は1,158,000円で、建坪は本庁舎がおよそ490坪、議事堂は140坪であった。「近世復興式に古典的手法を加味した ───── 」 49)というわりには、千葉県庁などに比較して非常におとなしいデザインである。施工は大林組となっているが、『大林組70年略史』(昭和36年 大林組)には大正12年1月竣工と記載されており、いずれが正しいのか現時点でははっきりせず、今後の調査を待ちたい。

[A-09] 北海道拓殖銀行小樽支店

 拓銀小樽支店の開設は古く、本店創業の翌年、明治34年11月に設置されている。旧店舗が火災で焼失し、同39年12月、矢橋の設計により小樽区色内町29番地に煉瓦造二階建79坪余の店舗を新築 50)し営業を続けていたが、業務の進展に伴って手狭となった為、同市色内7丁目への移転を機に大正11年5月、再び矢橋の設計による新店舗の建設に着手、翌12年10月に竣工した。
 総坪数990余坪、鉄筋コンクリート構造、地上4階地下1階の堂々としたルネッサンス様式の建物で、当時「北海道のウォール街」とよばれた地区の一角を占めた。
設計には矢橋の他、彼の部下である小林正紹が協力、工事監督は山本萬太郎、湯淺十三二が担当、建築工事は札幌の 伊藤亀太郎 51)が請け負った。竣工直後の大正13年4月、小樽高商を卒業した 小林多喜二 52)は新築まもないこの拓銀に勤めながら、昭和4年11月に退職するまでに「蟹工船」「不在地主」などを発表、プロレタリア文学界のホープとして注目される。その後、小樽の経済活動を支えてきたこの建物も、産業構造の転換から次第に時代の遺物となり、昭和44年、同支店の稲穂地区への移転によって拓銀の手を離れた。その後、一時オフィスビルとして使用されたものの、それ以後は借り手もつかず廃屋同然になっていたが、昭和62年1月に民間会社がこの歴史的建造物を買い取り、平成元年10月、約25億円をかけホテルとして甦らせた。しかし景気の低迷から思うように売り上げが伸びずに撤退、平成7年7月、丸井今井グループにより「ペテルブルグミュージアム」として再生、現在に至っている。
 なお、明治39年に建てられた新築移転前の建物は、正面部分の改築が若干見られるものの現存しており、中央の建築家による歴史的建造物としての価値と復元の可能性と言うものを考えると、ぜひとも旧態保存の望まれる建物である。

[A-10] 石川県庁舎

 明治13年に竣工した旧庁舎を取り壊し、矢橋の設計によって大正11年6月着工、同13年6月に竣工した新庁舎は、鉄筋コンクリート構造3階建、建坪867坪余の、様式的装飾の少ない近代建築である。石川県下では最初の本格的な鉄筋コンクリート構造の建築で、外観は垂直線を基調とし一部にガラスの勾配屋根を採用、ステンドグラスの天井との組み合わせで豊かな内部空間がうまれ、また正面玄関の漆塗りの扉、階段室の装飾用漆塗りタイルの使用などとともに、当時としてはモダニズムの粋を極めたものであった。設計には笠原敏郎が協力、建築工事は日本土木椛蜊緕x社が請け負い、工費は約123万円で、工事監督には同県建築課長渡辺浚カ他、同県技師及び技手数名が当たった。昭和56年と59年には老朽度調査も実施されているが、歴史的な価値を考慮すると一日も早い全面的な復元改修工事が望まれている。

[A-11] 郡山市公会堂

 大正13年9月1日の福島県郡山町の市制施行を記念して建設された公会堂である。清水組の施工による、鉄筋コンクリート構造2階建、塔屋付きの建物で、ロマネスクアーチを基調としたデザインが特徴であり、矢橋の設計と伝えられているが、実際には部下である 荻原貞雄 53)にオランダのハーグ平和宮の図面を示して設計を任せたと言われており定かではない。
 『清水建設百五十年』(昭和28年 清水建設)には大正13年竣工とあるが、建物に関する資料が少なく不明な部分も多い。昭和46年に改修工事を行なって部分的に増築され、現在に至っている。

[A-12] 国会議事堂

 妻木、矢橋、大熊という大蔵省営繕の建築家達が、文字通りその生涯を捧げた議院建築。その営繕機構の総力をあげて取り組んだ記念碑的大建築であるが故に、特定の建築家の作品と決め付けることは不可能であるが、辰野の死後、議院建築コンペの審査に関わった矢橋が、その責任者として建設途中で他界したことを考えれば、彼の遺作と言えなくもないであろう。ただ昭和11年11月に竣工した国会議事堂の本建築がその実現をみるまでには、半世紀にわたって幾多の曲折があった。それらの沿革については、『帝国議会議事堂建築の概要』(昭和11年 大蔵省営繕管財局)ほかに詳しいが、ここで簡単にふれてみたい。
 明治19年2月、内閣に臨時建築局が設置され、議院及び中央諸官衙の建設に当たることになった。総裁は井上馨で、御雇教師J.コンドル、工事部長 松崎萬長 54)、御用掛妻木頼黄、技手として 渡辺譲 55)河合浩蔵 56)滝大吉 57)が名を連ねた。しかし政府は外国人技術者の指導が不可欠であるとの考えから、ドイツよりW.ベックマン、H.エンデらの建築家を招聘し、議院及び諸官衙集中計画に当たらせた。明治20年4月、議院の敷地は「麹町区永田町1丁目」と閣議決定されるが、同22年には大日本帝国憲法が発布、さらに同23年11月に迫った第一回帝国議会までに本建築の完成が間に合わないため、日比谷内幸町に一時的な仮議院を建設することになる。
 ドイツ人技師A.ステヒミュレルと内務技師 吉井茂則 58)の設計に基づき、明治21年6月着工、同23年11月24日、帝国議会召集の前日に竣工し、同月29日の開院式に引き続いて第一回帝国議会が開かれた。しかし翌24年1月20日、竣工後僅か二ヶ月
足らずでこの第一回仮議院は焼失してしまう。そこで吉井茂則及びドイツ人技師O.チーツェの設計によって直ちに第二回仮議院の建設に取りかかり、同年11月に竣工した。
 この建物は大正12年の震災にも焼け残ったが、大正14年9月18日、修繕工事中に出火し焼失してしまう。営繕管財局では直ちに第三回仮議院の設計に取りかかり、同月29日に着工、同年12月22日、実に約80日間という工期で7,000余坪の建物を完成させた。この時に営繕管財局で指揮をとったのが工務部長の矢橋であるが、その時の様子については『建築家下元連 九十六年の軌跡』(昭和60年 営繕協会)の中に、部下であった下元の回想として次の様な記述が見られる。
 「 ──── それは大正14年9月18日であった。午後4時少し前、議院が火事だというので工務部長の矢橋さんはすぐ現場へ出かけられた。其の頃の役所の勤務時間は4時迄だったので4時半頃には皆退庁してしまったが、私とK技師は「今日は何か用事がありそうだ」と思って居残っていた。矢橋部長は現場で「この火勢ではどうしようもない、議院は全焼だ」と見通しをつけて、すぐ役所へ帰ってきて、居残っていた私とK技師とに即刻復旧の案にとりかかれという命令である。そしてその基本方針として示されたのは、1. 出来るだけ在来の基礎を使うこと。 2. 平面計画も成る可く在来通りとし、之れを簡単で便利な様に改善すること。 3. 総延べ面積は六千坪程度。 この方針に基いてシングルラインの略平面図が大体其の晩の中に出来た。 ──── 」その後10日間ぐらいで基本的な設計図、仕様書を完成させ、矢橋は清水、大林、大倉、安藤、松村の各建設会社社長を呼んで、建築工事全体を第一区から第五区までに分割し、各部分を以上の五社に特命で請負ってもらうこととした。
 つまり、中央部を清水組、貴族院議場部は大林組、衆議院議場部は大倉土木、貴族院後部は安藤組、衆議院後部は松村組という具合であった。以上五社は特命を受けたことを名誉とし、9月29日請負契約締結と同時に着工、期せずして競争施工という形をとりながら、何の不祥事もなく工事は進捗した。こうして10月21日
上棟式、12月15日竣工検査を経て、12月22日、木造ではあるが約7,000坪余の大建築が落成したのである。最終的な工事費は約160万円であった。この、採算を度外視した誠意ある五社の代表に対して、大蔵省営繕管財局は感謝状並びに金杯を贈ったという。
 一方、議院の本建築は、大正7年6月に臨時議院建築局が設置されて敷地の整地に着手して以来 59)、大正9年1月30日地鎮祭、同年6月26日鍬入式、昭和2年4月7日上棟式を経て、昭和11年11月7日、実に18年半という歳月をかけてようやく竣工式
を迎えたのである。
 当初750万円だった予算に対して、実際の工事費は2,580万円近くに膨れ上がっていた。
 昭和2年5月、上棟式直後に矢橋が亡くなってからは、部下であった大熊が工務部長としてその後を継ぎ、池田譲次が工務課長となった。また設計主任小島栄吉の下では吉武東里、小林正紹が図面を描き、構造は兼任技師佐野利器指導のもとで斉藤亀之助が担当、小島は現場の工場長を兼任、昭和6年からは小林金平の後を継いで監督課長となり、工事担当責任者として現場をまとめた。
 昭和11年11月の竣工式の後、工事に関係した技師達は矢橋の眠る青山墓地に車を走らせ、その墓前に額ずいて議院の竣工を報告し涙を拭ったという。
 敷地約21,000坪、建坪3,750坪、鉄骨鉄筋コンクリート構造地上3階(一部4階)地下1階に、9階建高さ約65mの中央塔が聳える新議事堂は、延べ254万人余を動員し、こうして竣工したのである 60)



 矢橋の設計等によって実施にうつされたものは以上と見られるが、その他にも実施には至らなかったが設計されたものがあり、これらについて以下に記すこととする。

[A-13] 聖路易万国博覧会日本特別館

 アメリカがフランスよりルイジアナ州一帯の地域を買い取ってから100年を記念した万国博覧会は、明治37年4月30日から12月1日までを会期として、セントルイス・フォレスト公園において開催され、総面積514万uの会場内には1,576の建物と総延長21kmの鉄道がつくられた。また、会場の隅には「日本村」がつくられ、当初その特別館の建設にあたっては、当時大蔵省臨時税関工事部技師の矢橋と、部下の村井三吾によって、名古屋城を模した五層の城郭風建築を建てる計画であった。
 しかし我が国が日露戦争の最中であったため、経費の都合から見合わせとなる。結局は明治26年のシカゴ万博と同様、文部技師 久留正道 61)らの設計によって、寝殿造り風の美術館及び金閣寺風の喫茶館、また日本村正面には日光陽明門を模した建物がつくられた。矢橋はこの博覧会に際し敷地選定の段階から関与しており、同調査のため明治35年に渡米して帰国、雑誌『建築世界』(明治36年10月)にこの特別館のあり方について意見を寄せている。(後出)

[A-14] 大阪市公会堂設計競技

 現在大阪中之島に建つ中央公会堂は、明治45年に行われた17名の建築家による指名懸賞競技設計で基本設計が決定、それに基く実施設計によって大正2年6月に着工、同7年10月に竣工した大正初期を代表する建築である。
 明治44年、株式仲買人岩本栄之助による100万円(現在で推定50億円)の寄付によって大阪市は財団を設立し、明治45年4月、当時東京帝国大学名誉教授で、同38年より大阪で片岡安とともに設計事務所を開いていた辰野金吾に建築顧問を委嘱して、17名の建築家による指名設計競技を実施、10月31日の締切までに13案が提出され、11月15日より同月21日まで、財団理事長、辰野、そして応募者全員が参加
する 互選審査 62)の結果、岡田信一郎案が最優秀案として選ばれ、2等に長野宇平治、そして3等に矢橋賢吉が入選した。これらの設計図案は、12月4日より大阪中之島の建設事務所において一般公開されている。
 それぞれの審査概評については、実質的な審査委員長であった辰野金吾が『建築工芸叢誌』第22冊〜第24冊の中で詳しく述べているが、その辰野をして、「最も敬服する處は、製図の精巧と仕上の見事なるにある。此點に於ては蓋し競技者中第一位を占むるものであろう。又平面図には大なる注意を拂はれ、十二分研究されたものと思ふ。何とも言ひ得ないほど気持の好いプランである。」(原文まま)
と言わせた矢橋案は、その配景図を見ただけでもわかる様に、当時としては非常に斬新なデザインのものであった。
 当時矢橋は大蔵省臨時建築部技師兼大蔵技師という立場にあり、彼に協力したのは小林正紹と 咲寿栄一 63)であるが、『美術新報』(大正2年1月号)掲載の「大阪市公会堂設計競技談」をみても明らかなように、プランを練るのが好きだったという矢橋本人のデザインと考えて差し支えないであろう。


[B-01] 内閣文庫

 内閣文庫は、明治6年に太政官文庫掛が置かれて太政官所蔵の図書類を管理したのがはじまりで、同17年には各官庁所蔵の図書を集中管理することになり、翌18年12月に内閣制度の創設にともなって内閣文庫と改称、現在は国立国会図書館支部図書館の一つとして、総理府国立公文書館によって管理されている。
 旧内閣文庫庁舎は、皇居旧大手門内の旧内閣庁舎(明治22年竣工、J・コンドル設計)に隣接して、明治41年4月、大蔵省臨時建築部の設計監督により翌42年2月に着工、同44年3月に竣工した煉瓦造、ルネサンス式の建物である。
 事務棟は2階建、建坪89坪余、書庫棟は3階建、同258坪余で、施工は大丸組の鈴木市郎が請負った。
 ところで、矢橋本人との関わりについてであるが、一般に「内閣文庫」は大熊喜邦の代表作品として記述されている場合が多い。しかし、民俗学者でもあり、また大正6年に設置された議院建築調査会では矢橋とともにその委員となって議院建築にも関わった柳田国男は、明治43年から大正3年まで内閣書記官室記録課長として内閣文庫に勤務しており、昭和29年7月、柳田邸で行なわれた座談会記録に「内閣文庫の思い出」として次のような興味深い部分があるので引用しておく。
 「(略)あの当時、大蔵省の建築局で ──── 建築課と申しましたか、建築局でしたかな、そこであれを設計してすっかりやってくれたんですけれども、始めは矢橋君 ──── 矢橋賢吉という人が、議会の建築なんかにも参加した人 ──── それが主任になってやりました。その下につい最近まで生きておりました大熊喜邦さん、あの人が主としてやったのです。───── 」
 明治42年2月の着工当時、矢橋は臨時建築部第一課長、大熊の方は同40年1月に横河工務所を去って大蔵省入りしたばかりであったことを考えると、大熊が入省後にその担当を任されたとは言え、上司であった矢橋が関与したことはまず間違いがないものと思われる。
 昭和46年3月、北の丸に国立公文書館が竣工し、内閣文庫の機能はすべて移管され、旧庁舎はその後再利用されることもなく廃屋同然となっていた。同60年3月、現地保存を望む声も一部には聞かれたものの、諸般の事情もあって取り壊されたが、事務棟部分のみ(財)博物館明治村に移築復元され公開されている。

[B-02] 北海道拓殖銀行旭川支店

 拓銀旭川支店の開設は明治38年10月である。当初は1条通11丁目で営業を開始したが、同40年11月、2条通8丁目に木造2階建の店舗を新築、その後43年9月に類焼した為、大正元年7月新店舗を着工し、翌2年11月に竣工した。
 石造2階建、建坪168坪余のルネッサンス様式による建物で、腰石、蛇腹その他の突出部には美瑛硬石及び登別硬石を用い、踏石に花崗岩を用いたほかはすべて軟石であった。
 設計は、臨時建築部時代からの矢橋の部下であり、工手学校での教え子でもある大高精で、矢橋は顧問となり、小林正紹が製図を担当、施工は札幌の 新開新太郎 64)が請負った。

[B-03] 山口県庁舎・県会議事堂

 明治44年の通常県議会において県庁舎及び県会議事堂の新築案が承認され、同年10月、その設計が大蔵省に公式に依頼された。臨時建築部では妻木 (大正2年5月依願免官、以後丹羽鋤彦となるが6月には臨時建築部廃止) 部長指導の下、主として平面計画は大熊喜邦が、様式及びデザイン装飾は武田五一が担当し、大正2年12月、設計仕様が最終的に決定した。矢橋は顧問となり、他に設計分担として山崎静太郎、小島栄吉が加わっているという 65)。大正2年4月着工、同5年7月に竣工し、県庁舎、議事堂ともに煉瓦造2階建で、延べ面積はそれぞれ4,631u、1,184u、外観は擬似石造仕上で英国ルネッサンス様式に日本及び東洋趣味を加えたものとなっている。主体工事の施工は京都大岩組の大岩徳次郎が168,496円で落札し、総工費は397,048円であった。庁舎及び議事堂については、昭和45年12月の県議会において現在地での改築が決定され、基本設計ではともに取り壊しとなる運命にあったが、同54年に文化庁による保存のための現地調査が行なわれ、建築様式はもとより、技術的、文化的に見ても、また知名度などからも文化財としての価値は高いとの結果が報告された。これによって新庁舎の計画見直しが行なわれることになり、翌55年の県議会においてその保存が正式に決定、58年に県有形文化財、59年12月には国の重要文化財に指定され、60年11月「山口県政資料館」として再生、現在に至っている。

[B-04] 丁酉銀行本店

 丁酉銀行は明治39年9月、浅野長勲、池田章政、井伊直憲他の諸侯伯及び山本直成他十五銀行関係者により、資本金200万円をもって設立された。
 大正4年7月、東京市京橋区日吉町(現在の中央区銀座8丁目6)で本店の新築工事に着手し、大正6年11月に竣工している。本館建坪196坪余、煉瓦及び石造2階建のルネッサンス様式で、玄関出入口のある隅角部分にドームをのせ、内外の壁体部分には岐阜県赤坂産大理石をはじめとして、茨城県稲田産、岡山県萬成産の花崗岩などが用いられた。
 工事は、清水、大林、竹中3社の指名入札により竹中が落札したが、その前後の事情については『竹中工務店七十年史』(昭和44年 竹中工務店)に詳しい。
 設計は妻木頼黄、それに設計及び監督として矢橋賢吉、小林金平が名を連ね、工事監督には、臨時建築部時代の部下であった岩崎弥太郎、桑畑梅太郎が当たった。しかし大正5年10月に亡くなる妻木が、前年の春から病床に伏したことを考えあわせると、実質的な責任者である矢橋が設計に十分関わったという可能性は否定できないであろう。その後、十五銀行新橋支店、三井銀行新橋支店を経て、最近まで三井信託銀行新橋支店として利用されてきたが、残念ながら取り壊されてしまった。

[B-05] 枢密院庁舎

 枢密院は、旧憲法下において重要な国事行為を審議し、内閣の施策までも左右する力を持った天皇の最高諮問機関であったが、昭和22年の新憲法施行にともなって廃止された。
 明治20年4月、議院本館の敷地は「麹町区永田町1丁目」と閣議決定されるが、その工事開始は大正7年6月の臨時議院建築局設置を待たなければならない。同局では議院本館敷地の整理に先立ち、既存の馬政局、枢密院事務所、同官舎を取り壊して新築移転することとし、その設計も同時に行なわれた。
 このような状況の中、現在皇宮警察本部として利用されている旧枢密院庁舎の建物は、大正9年4月に着工され、翌10年9月に竣工したものである。
 施工は直営で行なわれ、総工費約50万円、延坪399坪余、鉄筋コンクリート構造2階建人造石張りで装飾の少ない建物であるが、当時すでに地鎮祭も終わって工事が始まっていた国会議事堂建設のための試作的な作品としての性格が強く、設計は矢橋のもとで小林正紹、小林政一が担当したと言われている。

[B-06] 岐阜県庁舎

 明治7年竣工の木造平屋建庁舎が老朽化して手狭になった為、大正10年に予算150万円を計上し、県議会の満場一致で庁舎の改築が決定した。大正12年6月に着工し、当初の計画では正面に11階建の塔を建てて県政の象徴とする予定であったが、9月の関東大震災により構造的な見直しを余儀なくされ急遽変更、翌13年10月に竣工し、11月1日に落成式が行なわれた。工費は104万円で、延べ2,347坪余の庁舎棟と延べ501坪余の議会棟からなり、鉄筋コンクリート構造地下1階、地上3階、塔屋付(議会棟は一部SRC造)で、天窓にステンドグラスを採用し、同県を象徴する長良川鵜飼、養老の滝、飛騨アルプスを図案化している。平面形は単純なE字形プランであるが、内外装の仕上は素晴らしく、特に知事室、会議室等の暖炉、食堂、手洗所等の大理石装飾は矢橋大理石商店からの寄贈品である。
 設計は同県営繕課主任技師清水正喜、顧問として矢橋と佐野利器が参加、建築主体工事は大阪の銭高組が請負い、大理石工事は地元の矢橋大理石商店によるものである。推測の域を出ないが、当初予定された正面の高塔、豪華な内部仕上、矢橋大理石商店からの寄贈品などを考え合わせると、顧問とは言え、美濃赤坂出身の矢橋にとっても格別の思い入れが多分にあったのではないかと思われる。
 矢橋との関わりが最も深く感じられる建物の一つである。その後、昭和20年7月の大空襲でも奇跡的に焼け残ったが、次第に手狭となり、同41年に現本庁舎が移転新築され、現在は県の出先機関が入る「岐阜総合庁舎」としてその優美な姿を今に伝えている。

[B-07] 警視庁庁舎

 大正14年12月に設置された中央諸官衙建築準備委員会により基本的要綱が決定され、それによって営繕管財局が最初に着手した計画が警視庁庁舎の新築であった。
 大正12年9月の大震災で旧庁舎が焼失、宮城前広場に仮庁舎を建てて応急的な警備をしていたが、執務上不便な点も多く、予算569万円余を計上し議会の承認を経て、大正15年10月、桜田町1番地において敷地の整地に着手し、昭和6年7月竣工した。延べ面積29,834u余、鉄骨鉄筋コンクリート構造地下1階地上5階建で隅角部に塔をのせたデザインは、昭和2年12月竣工の神戸税関庁舎にも共通するものである。設計は営繕管財局であるが、庁舎の基本設計、特にプランは矢橋の案そのまま 66)であるという。また設計当初、正面の塔はもっと高かったが、宮城内が展望できるような高いものはけしからんという批判があり、管財局では帝都警備の必要性からも宮城内を見守っていなければならないからと反論したものの、やはり塔を低くして欲しいという宮内省の意向もあって、塔の上の部分をそのまま切ってしまったという 67)
 庁舎の設計は工務課第二係(係長 下元連)の担当で、工科大学を大正7年に卒業した大口清吉が図面を引いていたが、矢橋部長が毎日出てきてはそばで見ているのでノイローゼ気味になってしまい、そのうち胸の病気にかかって、後半の実施設計は荻原貞雄が引き継いだという話も残っている 68)。着工の翌年に矢橋は亡くなっているが関わりの深い作品と言える。


[C-01] 福岡県庁舎

 旧福岡県庁舎の計画は、明治42年の県議会に鉄骨煉瓦造、坪当たり単価624円で予算が提出されたものの、経済的な理由などから単価348円にまで縮少され、鉄骨の使用もやむを得ない部分の補強のみに限定された。明治44年10月に着工し、大正2年8月6日定礎式、同年10月には上棟式が行なわれ、同4年2月に竣工した 69)。総工費約39万円、延べ約2,400坪余、煉瓦造地下1階地上2階建の建物は、ルネッサンス様式にゼセッションを加味したデザインであるが、正面玄関部分頂部の「観衆閣」と呼ばれた尖塔形式の塔屋が印象的で、またポーチ及び玄関前の古典主義的装飾などで構成する中央部分は重量感がある。玄関及び2階ホールには福岡県内で最初と言われるステンドグラスも採用されている。
 設計は妻木頼黄指導のもとで同県土木課の建築主任技師であった三条栄三郎が担当したと言われているが、時期的に考えると実際には当時臨時建築部長として絶大な権力をもっていた妻木が部下に指示してその指導に当たらせたと見るほうが妥当ではないかと思われる。矢橋の関与は残念ながら不明であるが、当時建築分野での妻木直属の部下が第一課長の矢橋であったことを考えあわせると、推測ではあるがその可能性は無視できない様に思われてならない 70)
 施工は地元業者の筆頭格である岩崎組(現 岩崎建設)が請負い、隣接する警察庁舎(昭和58年取り壊し)と同時に一括受注したものである。昭和56年11月、建物の老朽化などから庁舎を新築、移転し、旧県庁舎の保存問題については、同53年5月の「福岡県庁舎の保存再生を進める会」発足の頃から種々論議がかわされていたものの、結局は解体後一部の価値ある部材についてのみ保存することが決まり、同58年5月解体工事に着手、翌年1月に完了した。

[C-02] 熊本県尋常中学済々黌

 済々黌は明治12年創立の「同心学舎」に端を発し、明治15年2月「私立済々黌」と改称、同20年に創立された第五高等学校との一貫した教育課程によって尋常中学・高等中学の教育体系ができあがった。同26年熊本市薮の内町(現 城東町)に移転、同33年本黌を第一済々黌、第二済々黌(現 熊本高等学校)に分け、第一済々黌は黒髪村(現在地)に移り県立済々黌中学校と改称、その後昭和23年の学制改革によって県立済々黌高等学校となり現在に至っている。
 矢橋との関わりについては 一部の資料に記述があるのみ 71)で詳しいことは不明であるが、「建築雑誌」における彼の訃報記事によれば「熊本県尋常中学済々黌建築顧問ニ嘱託」とあり、何らかの関与があったことは間違いない。しかしその年月についての明記はなく、どの時期のものかも定かではない。ただ明治27年卒業ということを考えると、同33年4月の黒髪村への移転時か、あるいは同36年12月の旧校舎全焼にともなう同39年落成の新校舎か、いずれにしても現時点では不明である。
 『明治大正図誌15 九州』(昭和53年 筑摩書房)には焼失前の黒髪校舎が、また『日本学校建築史』(昭和48年 文教ニュース社)には明治39年復旧後の本館が掲載されているものの、どちらとも断定はできない状況にあり、これからの課題としたい。

[C-03] 熊本県立病院

 明治11年5月に開業した県下で最初の県立病院で、現在は熊本大学医学部付属病院となっている。手元の資料が少ないため詳細はまったく不明であるが、「済々黌」と同様、彼の訃報記事に 「建築顧問を嘱託された」 72)とあるだけでその時期についての記載はなく、県立への移管が大正10年で、翌11年には県立熊本医科大学付属病院となったことが年代考証の手がかりとなるものの、『大日本博士録 第5巻 工学博士之部』(昭和3年 発展社)に記載されている矢橋の業績の中では、単に「熊本病院」となっており定かではない。ここでは『建築雑誌』における表記をとることとする。

[C-04] 大韓医院本館

 矢橋は明治39年と40年の二度、韓国へ渡っているが、39年9月の渡韓は「大韓帝国政府度支部大韓医院建築工事臨時監督を嘱託」 73)されたためであった。
 この大韓医院本館の建物は、現在ソウル大学医院本館となっており、煉瓦造2階建、延べ400坪余で、大韓帝国度支部建築所設計、大倉粂馬施工により1908年(明治41)に竣工した。フリークラシックスタイルにバロック式の塔屋をのせ、度支部建築所の秀作の一つと言われる。 この建物については、矢橋は工事監督として関与したことになっており設計作品とは言えないが、度支部建築所の技術陣の大半が日本人であり、矢橋の帝国大学での後輩達であったことを考え合わせると、何らかの意見交換がなされた可能性も否定できない。

[C-05] 朝鮮京城煉瓦工場

 『大日本博士録』に矢橋の業績として記述があるのみで、詳細は不明である。明治39年9月、大韓帝国政府の度支部内に建築所が設置されたが、その建築所に付属して煉瓦製造所が存在していた。資料が少ないためそれと同一のものかどうかも不明で、今後の調査に委ねたい。

[C-06] 京都停車場

 大正3年12月、辰野金吾の設計による赤煉瓦の東京駅が竣工した。表向きの建築史ではこれだけで通用するが、同じ大正3年にもう一つの大きな駅が竣工している。鉄道院西部鉄道管理局設計、大林組施工による京都停車場である。
 東京駅よりもひと回り小さいが、それでも東西220u、烏丸通の中心を軸線とし、建築面積4,541u、木造2階建一部平屋、塔屋付の堂々としたものであり、
しかも 設計期間わずかに4ヶ月、大正2年9月に着工し、翌3年7月竣工 74)という突貫工事で進められた。
 ところで東京駅と京都駅には一つの共通点がある。それは、共に皇室が利用し、それぞれ皇居、京都御所と密接なつながりがあるという点である。しかし二つの駅にとって、この時期に建設された背景はまるで違う。東京駅が明治41年3月着工、大正3年12月竣工で、帝都の表玄関としてふさわしい中央停車場を上野新橋間に、という要望から建てられたのに対し、京都駅本屋の新築工事が急遽行なわれた直接のきっかけは明治天皇の崩御であった。
 京都駅の開業は明治9年神戸京都間の鉄道開通にまで遡る。同13年には京都大津間が開業して駅舎の増築が行なわれたものの、駅周辺の市街地化などにより、さらに大規模な改良が以前から必要とされていたのである。
 明治43年秋になって、鉄道院は駅舎改良工事の基本計画を定め工事の準備に取りかかった。そうした中で明治45年7月30日、明治天皇が崩御し年号は大正と改元される。そして新天皇の即位礼が京都御所紫宸殿において大正3年秋に挙行されることが決定され、京都停車場の基本計画も急遽変更された。
 また、大正3年4月の皇太后登遐により即位礼は大正4年11月10日に延期された。
 ここで、京都停車場と矢橋との関わりを証言する一人の建築家が登場する。
 渡辺節 (1884〜1967) ─────── 。
 彼は明治41年7月に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、大韓帝国度支部建築所技師を経て、同45年 7月、鉄道院西部鉄道管理局に入る。当初は大阪駅改築に従事する予定であったが、7月末の天皇崩御によって事態は大きく変わる。すでに準備に入っていた京都停車場の改良工事も、御所での新天皇即位礼に間に合わせるため、予定されていた高架式を取りやめ、木造で急いで行なわれたのである。
 大正2年5月、停車場構内に工事掛員詰所が設置されたが、渡辺の他には工手学校を出た技手あがりの老人ばかりで、図面を引ける者がいなかった。そのため実質的には渡辺自身が設計を担当することになり、度支部建築所時代より先輩として指導を受けた矢橋を大蔵省に訪ね、技手4名を出してもらって設計に着手したのである。『建築雑誌』の訃報記事に「博士の関係された主なる建築物」として記載があるのみで詳細は不明であるが、以上のような経過があったためと思われる。

[C-07] 群馬県会議事堂

 『大日本博士録』では「業績」として、また『建築雑誌』では「関係された建物」として表記の記載があるのみで、資料が不十分なため詳細は不明であるが、『主要建造物年表』(平成元年 東京建設業協会)中に、建設に関する主な事項が記載されているので紹介しておく。

  建物名称 : 群馬県会議事堂    設計監理 : 大蔵省臨時建築課
  所在地  : 群馬県前橋市     構造   : 煉瓦、地上2階
  着工年月 : 大正6年10月      床面積  : 272坪
  竣工年月 : 大正9年10月      工費   : 190,750円(請負金額)
  施工者  : (不詳)

 大蔵省臨時建築課が設計したとすれば、着工当時、矢橋は営繕課長として大蔵省大臣官房臨時建築課勤務を命ぜられ、実質的な大蔵省営繕の責任者であったため、直接かどうかは別としても設計への関与は十分考えられるところであろう。

[C-08] 門司税関陸上設備

 矢橋は工科大学を卒業すると直ちに長崎税関監視部庁舎新築設計監督を依嘱されており、この経験が後に臨時税関工事部技師として、横浜、神戸、門司など重要港の税関陸上設備に関与することになったのではないかと思われる。
 しかし税関陸上設備は数年にわたる継続事業とされることが多く、また設計への関与についても、矢橋個人の名を見出すことは不可能で断定することはできない。ただ門司税関については、矢橋本人が大正11年に臨時門司港陸上設備委員となっており、陸上設備計画決定のための委員会設置が同年3月であることから考えて、当初から計画に関与し発言力を持っていたことは間違いないものと思われる。門司税関についてはすでに明治45年3月、妻木と咲寿栄一の設計監督によって煉瓦造2階建の庁舎が竣工し、建物はその後転用されてはいるものの現存している。しかしここでは矢橋の関係した可能性の高い大正期のものについて考えることとする。
 当該工事は第一期と第二期とに分けられるが、大蔵省は大蔵大臣官房臨時建築課門司出張所を設置して、大正5年4月、第一期工事である岸壁及び防波堤築造に着手、海面の埋立ても含め大正8年度を以って竣工している。しかしその内容と時期から考えると、矢橋が第一期工事計画に関与した可能性は少ないと思われる。
 一方、これら第一期工事途中よりヨーロッパにおける戦争の影響で内外貿易が発展し、従来の施設では対応しきれなくなってきたために、内務省は第二期修築工事を合わせて実施していたが、陸上設備の必要性に迫られ、同設備費として予算総額405万円を計上、第42回帝国議会に提出したものの議会が解散、実行予算25万円で大正9年度に着工し、翌10年度より予算380万円を6ヶ年継続事業として第44回帝国議会の承認を得、さらに大正12年度には門司税関合併庁舎建築に関わる経費約75万円を追加している。ここでは、矢橋が最も深く関わったのではないかと考えられるこの門司税関合併庁舎を中心に、その概要を記す。
 門司税関合併庁舎の建築は、当初税関庁舎のみで計画されていたが、港湾行政を統一するという趣旨から、陸上設備委員会の決議に基いて 合併庁舎 75)とすることが決まった。
 本館は鉄筋コンクリート構造地下1階地上5階(一部6階)建、延べ2,980余坪のルネッサンス式で、3階建別館が付属する。大正12年、大蔵大臣官房臨時建築課において設計に着手し、翌13年10月門司出張所において指名競争入札が行なわれ、神戸税関と同様、森田福市が請負い、同年11月6日着工、昭和2年5月22日に竣工している。

[C-09] 神戸税関海陸運輸連絡設備

 神戸税関海陸運輸連絡設備工事への矢橋の関与については、『大日本博士録』及び『建築雑誌』中に矢橋の業績として記載されているものの年月の明記がなく、ただ経歴の中に「大正2年 ──── (略) ──── 横浜神戸両港臨時設備委員仰付ケラル」とあるだけで、詳細は不明である。ここでは手元の資料で判明している事項のみ記すこととする。
 神戸における海陸運輸連絡設備の第一期工事は、明治39年4月に着工、大正11年7月に完成を見たが、神戸港の発展が著しく、その完成を待たずして拡張工事の必要に迫られたため、政府は第二期工事を計画、内務省所管に神戸港修築費を計上し、第41回帝国議会を経て大正8年度より実施することとなった。
 またその修築計画の一部である神戸税関陸上設備については、大正10年度より12ヶ年継続事業として予算総額950万円を計上、第43回帝国議会の承認を得、さらに大正11年度において神戸税関庁舎焼失による新築経費77万円余を追加したが、財政上の都合等により予算総額は1,027万円となり、大正10年度からの16ヶ年継続事業として同年4月に着工された。
 陸上設備工事計画は、内務省の実施する修築工事の埋立地に上屋、鉄道、道路、起重機、税関庁舎等を設置するもので、大正10年7月には臨時神戸港設備委員会において審議可決されることとなったが、その中でも中心となるものは税関庁舎の新築であった。
 延べ2,970坪余、鉄筋コンクリート構造(一部鉄骨鉄筋コンクリート構造)、地下1階地上4階建で、玄関出入口頂部に塔屋をのせるなど、旧警視庁庁舎のデザインと共通する部分が見受けられる。請負は森田福市で、大正13年7月に着工し、昭和2年12月に竣工した。

[C-10] 横浜税関海陸運輸連絡設備

 神戸税関の同設備と同様、業績としての記載しかなく、矢橋がどの程度関与しているのか詳細は不明である。ただ大正12年9月の関東大震災により、それまでの設備がほとんど壊滅してその機能を失ったため、同13年6月に大蔵大臣官房臨時建築課横浜出張所が設置され、その復旧工事が本格化していることと、震災前までの同設備に直接関与した妻木がすでに亡くなっていることから考えると、彼の後を継ぎ大正8年から臨時建築課長となっていた 矢橋本人の関与 76)は十分考えられるところである。
 横浜港の築港第一期工事は、イギリス陸軍の工兵将校であったH.S.パーマーの指導により明治22年9月に着工、防波堤、灯台、桟橋、連絡鉄道などを築造して、同29年5月に竣工した。
 また第二期工事は前期と後期に分かれ、埠頭の築造を主体とした前期工事は明治32年5月に着工、同38年12月に竣工するが、現在の新港埠頭はこの時につくられたものである。
 一方、桟橋改良、陸上設備の整備などが中心となる後期工事は、明治39年4月に着工し大正6年1月に竣工しているが、現在の赤煉瓦倉庫もこの時に建設されたものである。
 この横浜税関新港埠頭保税倉庫、通称赤煉瓦倉庫は二棟建てられているが、いずれも現存している。
 北側の二号倉庫(当時は横浜税関乙号煉瓦倉庫と呼ばれた)は 大蔵省臨時建築部(部長 妻木頼黄)の設計 77)により明治40年11月着工、同44年5月に竣工し、工事は直営で行なわれた。延べ3,249坪余、煉瓦構造の3階建で、床はアーチ形をした生子鉄板の上にコンクリートを流し込む典型的な防火床構造になっている。
 また南側の一号倉庫(当時は同じく甲号倉庫と呼ばれた)も二号倉庫と同様、臨時建築部の設計により、原木仙之助の請負いで明治41年4月に着工、大正2年3月に竣工した。規模は二号倉庫よりも少し大きく延べ3,387坪、煉瓦構造3階建の同じ様式で建てられたが、関東大震災により、二号倉庫は軽微な被害で済んだものの一号倉庫は約二分の一を焼失して大破、建坪1,129坪のうち損壊部分を取り除き、501坪(延べ1,729坪余)に規模を縮小して補修が行なわれ現在に至っている。
 関東大震災による横浜の被害は壊滅的で、税関設備も大半が失われた。震災後の復旧工事で主なものは、上屋、倉庫、其他建物、道路及び構内舗装、水道及び下水、鉄道、起重機、電気設備などで、上屋については10棟を新築、5棟が補修され、倉庫はすでに述べた赤煉瓦の2棟を補修、其他建物としては営繕管財局横浜出張所仮事務所、横浜税関桟橋事務所等が新築されている。
 矢橋が関わったとすればこの復旧工事の部分が中心であろうと思われるが、確証はない。なお、この復旧工事については『営繕事業年報』第一輯(昭和9年 営繕管財局)及び第二輯上巻(昭和11年 同)に詳しいが、煩雑をさけるためここでは省略する。

[C-11] 内閣総理大臣官邸

 現在の首相官邸の建物は、大蔵省営繕管財局の設計、清水組の施工により、昭和4年に竣工したものである。ただし設計は、矢橋の部下であった下元連によるものであることがわかっており、矢橋本人の関わった可能性は少ないが、『建築家下元連 九十六年の軌跡』に記載されている下元の回想の中で、大変興味深い部分があるので紹介する。
 「 ─── (略) ─── 私が総理大臣官邸を設計した当時の部長は矢橋さんでした。矢橋さんがどういうお考えからか、ある技師に総理官邸の基本計画をやってみろということがあったのです。第三係長だったと思います。矢橋さんがどういうお考えだったのか、 本来から言えば内閣ですから私のやるべきところだったんですが 78)、その前にその技師に平面図をこしらえてみろということで、その方が平面図をこしらえて矢橋さんに持っていったら、どうも気に入らないようで、私のところへきて、お前の係でもあるし、やれということで、それで私が基本計画、基本設計をやり、プラン、エレベーションは私が書きました。 ─── (略) ─── 更地でした。建物は取り壊してございましたが、まん中に2米たらずの段差がございまして、それをさきほどいいました矢橋さんが気に入らなかった図面では、段差を全然頭に入れずに、まっ平らな敷地としてやられたようです。
─── (略) ─── この段差を生かすほかないと考えましたのが私の基本構想だったわけです。ですからその段差を生かすために、床が上がったり、下がったりしていまして、平面図を引きまして矢橋さんにお目にかけたんですが、どうもあまりピンとこないようで、ボール紙で平面の閣議室、玄関、舞踏室などをこしらえまして、そして地下がどうなるということをこしらえて矢橋さんにお目にかけましたら、「ああ、そうか、よかろう」というようなことで、これで実施設計をつくれというようなことになったわけです。 ─── 」
 下元によれば第三係長は桑田正一、また実施設計では、工手学校出身の笹倉梅太郎という青年に詳細その他をまかせたという。大正15年1月の中央諸官衙建築準備委員会において、内閣総理大臣官邸の敷地は永田町2丁目1番地、旧鍋島侯爵邸跡地の一部とすることが決まり、昭和2年12月に着工、同4年3月に竣工した。本館は、延べ1,568坪余、鉄筋コンクリート構造(一部鉄骨鉄筋コンクリート構造)2階建(一部3階建)の建物で、実施設計を担当した笹倉によって、玄関ホールなど、非常にライト風なデザインとなっている。また下元によれば、当時の日本にはまだ迎賓館というものがなく、賓客は首相官邸に呼ぶつもりであったため、現在の会議室と呼ばれている部屋はもともと舞踏室として計画されたもので、端の方に中二階があり グランドピアノを置くようになっていた 79)といい、予算は坪単価500円ほどで、鉄骨鉄筋コンクリートの内務省、警視庁などの同210 〜 220円に比べると相当贅沢なものだったという。

[C-12] 日本赤十字社千葉支部

 明治29年7月に設置された日本赤十字社千葉支部については、『建築雑誌』(vol.33 no.391 大正8年7月)に“職務の傍ら設計せられたるもの”として、また『同』(vol.41 no.498 昭和2年7月)には“関係した建築物”として掲載されているものの、詳細は不明である。大正元年10月、上司である妻木の設計監督によって東京芝公園内に日本赤十字社本館が竣工し、さらにその大理石工事を矢橋亮吉が特命で受けていることなどを考え合わせると、千葉支部と矢橋との関わりは十分考えられる。しかし、資料が不十分なため支部の建物で昭和2年3月竣工以前のものについては不明であり、これからの課題としたい。

[C-13] 葉煙草取扱所・税務監督局・樟脳専売所・煙草製造所・塩専売所

 これら大蔵省所管の建築物については、矢橋本人が直接関与したかどうか不明であるが、『大日本博士録』に記載された業績によれば、“ 葉煙草取扱所各建築、煙草製造所各工場、塩専売所各工場、樟脳専売所各工場、税務監督局及税務署各工事 ” ─── とあり、関与そのものについては間違いないものと思われる。ここでは、これらの中から時期的にも早く、また矢橋が着任した最初の部署である葉煙草取扱所について簡単に記すこととする。
 明治29年3月の「葉煙草専売法」に基いて、同年10月には臨時葉煙草取扱所建築部官制が公布され、全国各地に葉煙草取扱所が建設されることになった。
 部長は大蔵省主税局長の 目賀田種太郎 80)が兼務、建築掛長に妻木、建築掛に矢橋という顔ぶれでスートし、36名もの技手を抱えていたが、この中には後に「妻木四天王」と呼ばれる川口直助、鎗田作造、沼尻政太朗、小林金平らが含まれていた。この体制で明治32年3月の官制廃止に至るまでに、全国183ヶ所の取扱所に事務所、収授所、倉庫など、総数1,260余棟の施設が建設されているが、この前後の沿革については『臨時葉煙草取扱所建築部一班』(大蔵省 明治32年)に詳しい。
 なお、明治40年10月にはそれまでの煙草、塩、樟脳の専売が統一され、専売局(旧 専売公社の前身)が設置されている。

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