経  歴

 矢橋賢吉は明治2年(1869) 9月20日、岐阜県不破郡赤坂村字子安(現 岐阜県大垣市赤坂町)に、父藤十郎、母幾世の三男として生まれた。
 父藤十郎は、中山道の宿場町である美濃赤坂の名家 矢橋家 3)の中で惣本家(東矢橋)の流れをくみ、また惣本家より分家した本家六代目宗太郎の五男亮吉は、明治34年に同地 金生山 4)に産する大理石を中心とした石材業矢橋大理石商店を創業、現在では資本金7800万円、従業員数500名をこえる矢橋大理石鰍ニなって発展を遂げている。
 矢橋は24才の時に父藤十郎を亡くしているものの、このような恵まれた環境の中で長兄 徳次郎 5)、次兄 為吉 6)とともに、能く愛育を享けたという。
 幼少の頃から魚釣りが大好きで、暇を見つけては近くに流れる 杭瀬川 7)へ足を運ぶことが多かったらしく、囲碁は本因坊に師事し初段の実力で、盆栽を好み、また浄瑠璃に関しては素人の域を脱するほどであったという 8)
 夫人は愛媛県宇和島町の士族 渡辺至 9)の二女ですて子といい、明治29年2月10日には長女きみ子が誕生している。
 矢橋は、赤坂小学校、大垣中学校を経て上京し第一高等中学校に入学、明治24年7月8日、同校倫理講堂において加藤帝国大学総長臨席の中、第五回卒業証書授与式が挙行され、第二部工科志望33名の一人として卒業する。
 その中にはのちに工科大学で同級となる 大澤三之助 10)遠藤於菟 11)がいた。
 さらに矢橋は帝国大学工科大学造家学科へ入学するが、同級には一高で同期だった大澤、遠藤のほか、同じ時期に第三高等学校を卒業し、やはり工科志望で上京した 野口孫市 12)がいた。在学中は 辰野金吾 13)をはじめ、中村達太郎 14)石井敬吉 15)小島憲之 16)木子清敬 17)らの薫陶を受け、また卒業設計では「HOTEL」 をそのテーマとして選んでいる。
 明治27年7月10日、帝国大学各分科大学の卒業証書授与式が挙行され、工科大学では42名、そのうち造家学科からは矢橋、大澤、遠藤、野口の4名全員が卒業した。
 卒業後、矢橋は直ちに彼の処女作ともいえる長崎税関監視部庁舎新築の設計監督を依嘱され、建築家としてのスタートをきる。また、ほぼ同じ時期に「大阪土木会社」18)の造家技師長も嘱託されているが、卒業してまもない矢橋がなぜ、この「大阪土木会社」と関わりを持つようになったのか、現時点では明らかにできていない。
 明治29年3月28日に葉煙草専売法が公布されると、大蔵省では同31年1月の法施行に向け、全国各地で葉煙草取扱所、支所及び貯蔵倉庫など183ヶ所の建設に着手した。
 同年10月27日、矢橋は大蔵省臨時葉煙草取扱所建築部技師の辞令を受けて営繕官僚としての第一歩を踏み出す。
 そしてこの時の上司である建築掛長が、後に大蔵省営繕の総元締めとして絶大な権力を持つこととなる妻木頼黄であった。以来、矢橋は妻木の亡くなる大正5年まで彼の片腕として活躍をする。
 明治32年3月31日、勅令第59号により臨時葉煙草取扱所建築部はその役目を終えたとして閉鎖された。
 同年5月19日、勅令第207号によって主要港の築港及び税関施設の建設、中でも横浜税関の拡張工事すなわち新港埠頭建設のため、臨時税関工事部官制が公布された。矢橋は同工事部技師となるが、翌33年2月22日には同工事部建築課長として妻木が着任している。
 明治35年1月、矢橋は同29年2月より兼任していた 工手学校 19)造家学科教授を辞す。工手学校は、明治21年2月に東京築地に開校した私立夜学校で、帝国大学、東京職工学校などの大学出身技師を補助する工手の養成を目的とし、工科大学教授らによって設立されたものである。
 造家学科では製図に重点の置かれた実務的な教育内容であった。同時期に矢橋とともに教鞭をとっていた者は、朝倉C一、中村達太郎、眞水英夫、宗兵藏、野口孫市、長野宇平治、山下啓次郎、松見謙二、大澤三之助、山田七五郎、大島盈株、中榮徹郎の12名。
 矢橋は大澤らとともに自在画・配景画を担当していたようである。
 また同年11月には農商務省より米国博覧会参同準備委員に任ぜられ、その嘱託を受けて、明治37年に開催される聖路易博覧会敷地選定のため渡米し、翌36年3月に帰国している。
 明治37年4月1日、煙草専売法が施行され、同月11日には臨時煙草製造準備局が設置された。矢橋は同月15日付で同準備局技師となり同建築部第一課長を命ぜられ、臨時税関工事部技師、大蔵技師を兼任している。さらに同年5月に醸造試験所が設立されると、6月には醸造に関する建築調査を命ぜられ、翌年1月には同試験所講師を嘱託された。
 明治38年10月1日、官制改正により臨時煙草製造準備局が廃止され、大蔵省営繕課に代わって臨時建築部が設置される。矢橋は同建築部技師となり 第一課長 20)を命ぜられるが、この時も上司である臨時建築部長に妻木がいた。
 また39年には 大韓帝国度支部 21)の大韓医院建築工事臨時監督を嘱託されて渡韓、翌40年にも大韓帝国政府建度事務取扱のため、再び同地に赴いている。
 さらに明治41年5月9日、議院及び諸官衙建築調査のため、同日付で臨時建築部技師兼任となった 武田五一 22)とともに欧米への出張を命ぜられ、5月30日に日本を出発している。一行はアメリカのワシントン及び各州会議事堂を見学後、カナダを経てヨーロッパへ渡り、イギリス、ドイツ、フランス、スイス、イタリア、オーストリア、さらにロシアにまで足をのばし、各国建築の沿革並びに設計監督方法のほか、様式、装飾は勿論、構造、設備にいたるまで 詳細な調査を行なって翌42年3月1日に帰国した 23)。この調査結果については、同43年6月に「各国議院建築調査復命書」として大蔵大臣桂太郎に提出されている。
 臨時建築部では、議院建築準備委員会での原案作成のため、これをもとに議院建築の設計に取りかかっているが、のちに矢橋の後を継いだ大熊の回顧によれば、「妻木部長の命を承け、矢橋賢吉、小林金平 24)、大熊喜邦の三名が設計を担当し、武田五一、福原俊丸がこれに参画した」という。
 明治43年5月27日、その議院建築準備委員会官制が公布される。委員長には総理大臣兼大蔵大臣である桂太郎が就任、矢橋は同準備委員会事務担任を命ぜられた。また同年8月には、大韓帝国における一連の業績により韓国皇帝より勲三等大極章を受領している。一方、準備委員会の方は財政的な問題から翌44年3月1日で官制廃止となった。
 明治45年7月30日、明治天皇の崩御によって年号は「大正」と改元され、9月13日には東京青山葬場殿において「大喪礼」が挙行される。
 翌大正2年5月6日、矢橋にとって一つの転機が訪れた。
 入省の時からの上司であった妻木が健康上の理由から依願退職をしたのである。すでに明治45年3月から病床についていた妻木は、自分が育てあげてきた矢橋にその道を譲った。妻木は退職後も臨時建築部顧問嘱託という形で一応残ってはいたが、この時点で大蔵省における彼の時代は幕を閉じたと言える。
 そしてそれは「矢橋の時代」の始まりでもあった。
 大正2年6月13日、妻木が君臨していた臨時建築部は廃止され、同月、大臣官房臨時建築課に降格された。課長には土木出身の 丹羽鋤彦 25)が着任し、矢橋は大臣官房営繕課長として臨時建築課勤務を命ぜられる。
 また同年11月、同3年秋に予定された皇太子嘉仁の天皇即位礼のため、矢橋は大禮使事務官造営部員を拝命する。ところが翌大正3年4月になって、昭憲皇太后御登遐のため大典は延期され、官制は廃止となった。
 その後大正4年4月になって再び大禮使官制が公布、矢橋は大禮使事務官を拝命し、11月10日の即位礼のため京都行幸に供奉している。
 大正5年10月3日、妻木は自宅で危篤状態となった。そして、その一週間後の10月10日、肺炎を併発して急逝する。享年58才。同日付で正四位勲二等瑞宝章に叙せられ、15日には青山斎場で告別式が執り行われた。秋光院殿幽山頼黄居士。明治を代表する官僚建築家がその生涯を終えた。東京谷中にある妻木家墓所では、今も矢橋賢吉、小林金平、福原俊丸、秩父忠鉦らの献燈が妻木夫妻の墓碑を見守っている。
 それから一年も経たない大正6年8月、まるで「妻木の時代」が幕を閉じるのを待っていたかのように、議事堂建設への動きが再び始まった。
 8月22日、大蔵次官 市来乙彦 26)を委員長とする「議院建築調査会」が設置され、本建築への作業が着手されたのである。矢橋はその委員を命ぜられた。この時政府において調査会規則とともに発表された調査会委員を嘱託された者12名の
うち、建築家は矢橋のほか、辰野金吾、横河民輔 27)塚本靖 28)山下啓次郎 29)の計5名であった。同年10月、建築学会は調査会に対して「議院建築設計図案に関する意見書」を提出、意匠設計は懸賞募集とすることに決定される。翌大正7年6月には議事堂建設の担当部局として、大蔵省に「臨時議院建築局」が発足、局長市来乙彦の下、矢橋は技師として同局工営部長となり、さらにその部下として調査課長兼工務課長に大熊喜邦が着任する。
 一方、現国会議事堂の設計をめぐっての、大蔵省を率いる妻木と、学会を率いる辰野の争いは有名であるが、結果的には妻木の死によって 辰野側の主張する懸賞設計競技論が認められる形となった 30)。そして大正7年9月16日には「議院建築意匠設計懸賞募集」という見出しで臨時議院建築局が官報に広告を掲載する。6ページにわたる募集規定は全24条で、設計条件、所要図面、所要室数・坪数一覧表、及び審査員氏名などから成るが、その審査員の顔ぶれを見てみると、審査長には臨時議院建築局長官 市来乙彦、以下審査員として貴族院書記官長 柳田国男、衆議院書記官長 寺田栄をはじめ、塚本靖、丹羽鋤彦、山下啓次郎、辰野金吾、横河民輔、古市公威 31)、中村達太郎、正木直彦 32)曽禰達蔵 33)、そして矢橋賢吉の12名が名を連ねている。
 ところで、設計条件を記した懸賞募集規程第6条の中に、「 ─── 建築材料ハ己ムヲ得サルモノノ外本邦産ヲ用フヘシ」という一文があった。
 国産品を用いるという方針は明治43年の議院建築準備委員会の時点ではほぼ決まっていたらしく、 本邦産石材及び木材に関する臨時議院建築局の全国調査は明治42年から同45年にかけて実施されていた 34)。そして実際にこの規程にしたがって建てられた議事堂は、鉄骨から仕上げ材にいたるまで すべての建築材料を国産品でまかなった最初の大建築といわれるようになる 35)
 ではここで懸賞募集の審査経過について簡単にふれてみよう。
 臨時議院建築局が官報に募集広告を掲載してから、大正8年2月15日の一次締切までに118通の応募図案が集まり、3月24日付の官報では第一次審査の当選者20名が発表された。懸賞募集は二次競技法に依ることとなっていたため、一次当選者には第二次競技に対する注意書が配布され、9月15日の二次締切までに再度20案が出揃った。当局では直ちに第二次審査に入り、10月16日付の官報において競技設計の懸賞募集最終当選者4名が発表されたのである。
 1等当選者は宮内技手の渡辺福三、2等は片岡事務所技師の吉木久吉、3等一席が宮内技手の永山美樹、3等二席には陸軍技手の竹内新七が選ばれた。
 これらの経過については「議院建築図案懸賞募集と其の図案に就て」『建築雑誌』(vol.33 no.396 大正8年12月)に詳しいが、矢橋はその中で次のような審査評を述べている。
  (原文のまま)「(略) 處が第一次の時に集ったものを見ると、百十八通といふ可成りな多数の中に、是れぞといって嶄然頭角を見はしたものを見出すことが出来なかったのは、甚だ遺憾に思われた。正直に告白すれば私は痛く失望したのであった ───── 。」
 当局では評議の末、第一次当選者に対して注意事項を示し、第二次設計では、それまでの一次設計にこだわることなく思い切った提案をする様通知した。
 「(略) 其處でいよいよ第二次に集って来たものを披見すると、それは全く豫期に反して、注意も冀望も殆ど顧られなかった觀があったのは遺憾に堪えなかった。(略) 兎に角第二次の設計に、第一次と変った抜群の優秀案を見出すことが出来なかったのは非常に残念であった。(略) 当選した図案の中で何れが実行案としてよいかといふ段になると、当惑せざるを得ない ───── 。」
 結局、「エレベーションの点で良く出来ている」(矢橋) 等の理由から渡辺福三の案が第1等に選ばれたのである。

 ところでこの第一次審査当選発表翌日の3月25日、明治建築界に君臨し、妻木と争って議事堂の懸賞競技設計を実現させた辰野金吾が66才で亡くなっている。妻木亡き後、臨時建築部は辰野の意向にしたがって行く形となっていたが、2月24日の審査会に病気をおして出席した辰野は事実上の決定者として応募案の優劣を大体決めた後、千葉へ療養に出かける。そして3月13日の最終審査に出席するため自宅へ戻ったところで病状が悪化、3月25日深夜に急逝したのであった。辰野は議事堂コンペに殉死したと言われた。
 また、辰野が亡くなった大正8年頃と言えば日本の建築界にとっても大きな変革の時期であった。大正6年には 片山東熊 36)が、そして9年には ジョサイア・コンドル 37)、と日本近代建築の恩師と、その薫陶を受けて明治の建築界をリードしてきた第一世代たちがともにあわただしくこの世を去っていった。
 そしてさらに同じ大正9年には、わが国最初の近代建築運動ともいわれる「分離派建築会」38)がその活動を開始するなど、日本の近代建築はその大きな流れの中で新しい時代をむかえようとしていたのである。
 大正8年6月28日、矢橋は工学博士会の推薦によって、石井敬吉、大熊喜邦、 佐藤功一 39)らとともに工学博士の学位を授与された。また同年11月には大蔵大臣官房臨時建築課長を命ぜられている。
 翌大正9年1月30日、永田町の議院建築工事現場において、総理大臣原敬、大蔵大臣高橋是清などの閣僚をはじめ、1000名を超える関係者が参列して晴れやかに地鎮祭が執り行なわれた。
 ここで地鎮祭式典掛官の名前を列挙する。臨時議院建築局長官大蔵次官 神野勝之助、貴族院書記官長 河井弥八、衆議院書記官長 寺田栄、臨時議院建築局技師 矢橋賢吉、武田五一、小林金平、大熊喜邦、佐野利器 40)小島栄吉 41)下元連 42)、片岡真、大口清吉、吉武東里 43)、木本房太郎、藤本有麟、土岐定応、木下道雄、長世吉、常務顧問 塚本靖、伊東忠太 44)、山下啓次郎、横河民輔、曽禰達蔵、顧問 古市公威、正木直彦、中村達太郎、丹羽鋤彦、嘱託 小山一郎、福原俊丸、佐野昭、石原藤太郎、小林政一 45)
 これらのそうそうたる顔ぶれを見ても、当時の国家的大事業である議院建築にかける意気込みがいかに大きかったかが伝わってくるようである。
 一方、議院本館敷地の鋤取等の工事は株式会社大倉土木組が請け負っていたが、同社では大正9年6月26日の着工に当たって同日、臨時議院建築局より矢橋工営部長、大熊調査課長、小林工務課長他4名の参列のもと、鍬入れ式を行っている。
 大正12年9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲った。関東大震災である。この地震によって壊滅状態となった東京、横浜の所管建物復旧工事のため、以後、矢橋の仕事も議院建築の工事を除いてはそれらに関連したものが中心となる。
 大正12年10月1日、大蔵省臨時営繕局官制が公布され、矢橋は同局技師として工営部長を命ぜられた。そして部下には工務課長として大熊が着任する。
 その後、大正14年4月に臨時営繕局、5月には臨時議院建築局と相次いで廃止
され、同年5月25日に 営繕管財局官制 46)が公布されると、矢橋は技師として工務部長を命ぜられた。
 そして、大正15年9月15日より始まった議院建築本館中央塔上部の鉄骨組立工事も終わりに近づいた昭和2年4月7日、矢橋にとっては最後の記念すべき時が訪れる。
 この日、帝国議会議事堂本館の上棟式は、総理大臣若槻禮次郎以下各大臣、在京の貴衆両院議員、大蔵省その他の工事関係者1600名余りが参列して挙行された。
 大蔵省営繕管財局工務部長である矢橋はこ
の式典役員として祭壇前に立ち、左木綿綱の総務部長太田嘉太郎と相対して、右木綿綱の指揮をとり、その介添は同局技師の 池田譲次 47)が担当、さらに小島栄吉、吉武東里、 小林正紹 48)らが後に続いた。
 この時奉納された上棟式棟札には関係者として、中央に営繕管財局長官 田昌、左に総務部長理事 太田嘉太郎、監督課長技師 小林金平、右に工務部長 矢橋賢吉、工務課長技師 大熊喜邦の名前が記されている。

 妻木亡き後、その彼の生涯をかけた帝国議会議事堂の建設は、矢橋、大熊という二人の後継者によって上棟式も無事終了し、これからは石積みを主とする外装工事に取り掛るところであった。ところがそれから二ヶ月と経たない5月24日、それまでの激務がたたったのか、矢橋は脳内出血で倒れ、渋谷の自宅で急逝する。58才の生涯であった。
 明治29年大蔵省臨時葉煙草取扱所に出仕して以来、33年間を官庁営繕にささげた建築家、矢橋賢吉。景徳院殿清光日賢大居士。
 同日付で正三位勲二等旭日重光章を拝受、またこの時、生前の殊勲によって昭和天皇から白絹二巻もあわせて拝受している。
 入省以来の直属の上司であり、またおそらくは、自ら最も尊敬する官僚であり建築家であったであろう妻木から議院建築の仕事を引き継いで、大正7年の予算成立から懸賞募集、審査、実施設計、工事監理に至るまで、その全責任を負いながら大正時代の大蔵省営繕を支えた建築家矢橋賢吉は、その妻木と同様、ついに念願である議院竣工の姿を見ることもできないままに他界した。ここに「矢橋の時代」は幕を閉じたのである。
 葬儀は5月28日に青山斎場で執り行われ、建築学会々長の塚本靖が次のような弔辞を述べた。(原文のまま)

 「本會正員工学博士矢橋賢吉君卒然トシテ逝ケリ君ハ大蔵省ニアリテ官廳ノ建築ニ從事セラルヽコト多年、最近營繕管財局ノ官制定マルヤ工務部長トナリ其卓越セル手腕ト豊富ナル經驗トヲ以テ専ラ中央諸官衙ノ建築ニ努力セラル就中議院建築ハ特ニ君カ心血ヲ注キシモノニシテ其竣工ノ期モ亦近キニアリ此ノ如ク君ハ
官海ニ終始シテ盡力セラレシ外數多ノ縣廳舎、銀行、貴紳ノ邸宅ヲ設計シ嘗テ大阪市公會堂ノ指名競技ニ當選セラレタリ猶君ハ我建築學會ニ於テ數度役員ニ選ハレ主計トナリ或ハ各種ノ委員トナリ其功績偉大ナルモノアリ今君ノ長逝ニ遭ヒ哀悼ノ至ニ不堪謹テ弔ス」

 賢吉は初め青山墓地に埋葬されたが、その後、菩提寺である美濃赤坂の妙法寺に改葬され、両親、兄弟及び家族とともに静かに眠っている。

 矢橋の死後、その後を継いだ大熊は工務部長に、さらにその部下であった池田譲次が工務課長となって、以後議事堂の建設工事は進められる。昭和の「大熊の時代」が始まったのである。
 そして、妻木、矢橋がまさに生涯をささげた国家的記念碑とも言える帝国議会議事堂が竣工し、国民の前にその全容を現わしたのは、昭和11年11月7日のことであった。

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