ずいぶん前の話ですが、滋賀県の彦根に出張した折、少しだけ足をのばして、以前から一度訪れてみたいと思っていた美濃赤坂の町を歩きました。目的は、ここのところずっと追い続けていた建築家、矢橋賢吉の故郷を訪れて彼の墓を探し当てることでした。美濃赤坂は江戸日本橋より近江草津に至る中山道69宿のうちの57番目。その街道沿いにある矢橋本家から歩いてすぐのところに妙法寺という古刹がありますが、そこに賢吉は眠っていました。
 以前、賢吉についていろいろと調べていたとき、文献で賢吉の墓が東京の青山墓地にあるという記述をみつけました。たとえ研究であっても人物を掘り起こすわけですから、せめてお墓参りだけは、と思っていましたので、学会の出張で上京した際に訪れてみました。その時点での手がかりは、「亡くなった日」と「未亡人の名前」だけでしたが、霊園管理事務所の台帳から何とか墓地の地番を見つけることができました。それからどれくらい歩きまわったでしょうか、案内図を手に教えられた場所を何度も探してみましたが、残念ながら墓碑を見つけることはできませんでした。歩きつかれて事務所にもどり、別の資料に目を通していると、確かに埋葬はされたのですが、その後改葬されたらしく、墓地はすでに返還されていることがわかりました。手がかりはここで消えてしまいました。

 岐阜県大垣市赤坂町。この町に石灰岩産出量全国一を誇る標高217mの金生山があります。全山石灰岩からできていて埋蔵量は約4億tともいわれますが、この町で明治34年に大理石工場を創業したのが矢橋亮吉で、賢吉とは傍系親族の間柄になります。何年か前にその亮吉の伝記を矢橋大理石鰍ゥら借りて読んだことがあります。その中で矢橋家の菩提寺が赤坂の妙法寺であることが判明しました。さっそく問い合わせてみましたが、赤坂の矢橋家といえば400年をこえる旧家のため分家が多く、また墓の数も多くてすぐにはわからないとのことでした。それ以来いつか訪れてみたいと思っていました。

 話は少し変わりますが、「掃苔」という言葉をご存知でしょうか。最近の『広辞苑』には、やっと掲載されるようになりましたが、以前、『東京人』という雑誌で、ある特集が組まれました。
 「アールデコ」で有名な東京都庭園美術館内の (財)東京都文化振興会 が発行するこの雑誌は、その編集委員として芦原義信氏、高階秀爾氏などが名を連ね、私の好きな雑誌の一つでもあります。
 そして、その特集のタイトルは、“ 墓地を歩く楽しみ。「東京掃苔録」”。
 「掃苔」とは文字どおり「苔を掃く」ことですが、ここでいう「掃苔」とは通常の「お墓参り」の意味ではなく、見知らぬ墓地を歩いて、自分が探し求めている故人の生前の姿を偲びながら、手を合わせて無言の対話をすることです。
 以前から建築家の墓には関心があって、「コンドル」と「辰野金吾」についてはお墓参りをさせてもらったことがありましたが、もっと調べてみようと思ったのはそのときからです。
 建築家の場合は帝国大学の出身も多く、また活躍の場も東京中心となることが多いため、青山をはじめ、谷中、雑司が谷、多磨の各霊園やその周辺の寺院の墓地に集中しています。青山では片山東熊、中條精一郎、大熊喜邦、大江新太郎、高松政雄、木子清敬など、谷中は曽禰達蔵、遠藤於菟、山口半六、清水釘吉、妻木頼黄など(妻木は旗本の家柄だったため寛永寺の徳川家墓地内ですが)、雑司が谷・染井には佐野利器、佐藤功一、新家孝正が、そして多磨には横河民輔、渡辺節、関野貞など。他にも岡田信一郎、武田五一、三橋四郎、西村好時、森山松之助などが確認されています。

 それにしても、当時の建築家にとって墓碑の存在とはどのようなものであったのでしょうか。建築家の作品として墓碑が対象となった事例は数多く、逆に現在活躍中の建築家が墓碑を設計したというニュースはほとんど聞くことがありません。(もっとも、最後の作品として自分の墓は自分で、という気持ちはあるのでしょうが)
 とにかく当時の建築家は他人の墓まで設計したのですが、そんな中で異色の存在ともいえるのが鈴木禎次(1870〜1941)です。帝国大学工科大学造家学科を明治29年に卒業した後、三井を経て英国に留学、帰国後、創設されたばかりの名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築科主任教授として中村順平、松田軍平らを育て上げる一方、大正 6年には雑司が谷に文豪夏目漱石の墓標を設計しています。
 それというのも、彼の妻時子が明治29年に漱石と結婚した鏡子の妹だったからで、義理の兄漱石が明治43年に伊豆で倒れたときにはさっそく見舞いに駆けつけ、大正 5年12月の青山斎場における漱石の葬儀では、その一切を取り仕切ったといいます。

 ご存知の方は少ないと思いますが、夏目漱石といえば、建築との接点は一高時代にまでさかのぼります。
 明治17年に彼が入学した時は東京大学予備門という名前でしたが、明治21年に予科から本科へ進むと、当初は第二部(工科)に進んで建築を志しました。
 当時、一高の英語教授で建築家でもあった小島憲之から留学土産の写真集を見せられた二人の学生がいました。そのうちの一人、長野宇平治は工科大学に進んで建築家となり、もう一人の学生、夏目漱石は進路について悩んだあげく、同級生から文学をすすめられて第一部(文科)に進学しました。その漱石が帝国大学文科大学の英文科を卒業したのは明治26年のことです。
 話が少しそれてしまいましたが、夏目漱石の弟子の一人、藤浪和子女史が昭和15年に出版したのが「東京掃苔録」です。「掃苔」の歴史は古く、江戸時代後期には諸名家墓所一覧の書があったといいます。
 なお賢吉の墓碑にはこう刻まれていました。
        景徳院殿清光日賢大居士

            正三位勲二等 工学博士 矢橋賢吉
            昭和 2年 5月24日 終焉 行年 59歳
                     嗣子 きみ建之
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