札幌・小樽・函館など、絵葉書の世界の中で大都市とよばれたところでは、公共建築をはじめ、商店や銀行などの大建築が次々と建てられて絵葉書にも登場してきますが、それらの中には地元の大工棟梁などの手によって建てられたものも少なくありません。
 このレポートでは、明治から大正にかけて、これらの都市を彩る建築を手がけた次の人物たちにスポットを当ててみます。
( 主な人物のみですが参考までにどうぞ ・・・・・・ 。いずれ追加しようと思っておりますが・・・。(^^ゞ )
Index
 
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 大岡助右衛門
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 加藤忠五郎
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 新開新太郎
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 伊藤亀太郎
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 村木甚三郎
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 池田栄七
* 右の写真は大岡助右衛門の施工による札幌本陣 (M4)。手前の木橋は創成川に架る創成橋。

◆ 大岡助右衛門 (1836 ─ 1902)     BACK
 札幌における建設の歴史を遡っていくと、大岡助右衛門という大工棟梁が登場してきます。
 彼は天保 7 (1836) 年 5月、武蔵国久良岐郡大岡村 (現在の横浜市) の農家に生まれ、その後江戸に出て大工の修業を積んでいましたが、中川組初代中川源左衛門 (1815 ─ 1869)が幕末の大工事ともいえる箱館五稜郭の木工事を請負った際、大工頭に抜擢され、肝煎 (技術責任者=支配人) として工事にあたることになりました。
 安政 4 (1857) 年に着工された五稜郭は元治 1 (1864) 年 6月に完成、激動の維新を経て、明治 2 (1869) 年 7月には開拓使が箱館に置かれ、さらに「箱館」は「函館」に改められます。その後、函館の方は開拓使出張所となり、開拓使は札幌へ移っていきますが、同 3 (1870) 年に札幌本府の建設が始まると、中川組は助右衛門らを札幌へ送りこみます。この時、初代源左衛門はすでに亡くなっていましたが、二代源左衛門 (1838 ─ 1913)は岩村判官に「北海道開拓に付き大工棟梁を申付け」られ、助右衛門に大工など 270名余を引き連れて札幌に向かわせたわけです。この札幌本府建設で中川組が札幌へ送り込んだ職人たちの数は 1000名近くに上りました。当時の札幌の人口をみてみると、前年に比べて 50倍近くに増えた明治 4年でさえ 620名余。何もなかったところに町をつくるわけですから当然とも言えますが・・・。
 助右衛門は本府建設にあたって次々と主要な施設を建てていきますが、同 4 (1871) 年末には独立します。同 7 (1874) 年からは琴似、山鼻の屯田兵屋や学校関係の工事を請負いますが、彼の仕事を一つ上げるとすれば、それはやはり同13 (1880) 年11月に完成した「豊平館」ということになるでしょう。
 明治11年11月 5日、中川源左衛門、関口藤四郎、松生六兵衛らと競争入札の結果、大岡助右衛門が落札したのですが、「豊平館」については、また別の機会にふれることにします。
 ところで、現在中島公園内に移築されている「豊平館」の隣に小さな日本庭園があって、そのすぐそばに一つの碑が建っています。「四翁表功之碑」と題されたこの碑は、大正 7 (1918) 年 8月の「開道50年記念博覧会」にあわせて建てられました。「中島公園」は有名な観光スポットですので、ひょっとするとご覧になった方も多いのではないでしょうか。その名前の通り、北海道のために尽くした四名を顕彰したものですが、その四名とは、大岡助右衛門・石川正叟・對馬嘉三郎・水原寅蔵です。じつはここに登場する「水原寅蔵」も、助右衛門とは中川組で一緒に仕事をした仲間でした。
 助右衛門は明治15 (1882) 年、札幌豊平に日蓮宗経王寺を建立して寄付しますが、晩年は自ら建てた経王寺に隠居して余生を送り、明治35 (1902) 年 5月、67歳で亡くなりました。

 助右衛門が関係した主な建築は次の通り。(*印のついたものは現存)

     開拓使仮庁舎 (M4)
     札幌本陣 (M4)
     第一号官邸 (M5)
     邏卒屯所 (M6)
     琴似屯田兵屋 (M7) *
     札幌農学校模範家畜房 (M10) *
     札幌農学校穀物庫 (M10) *
     藻岩学校 (M13)
     豊平館 (M13) * ─ 札幌 #009 / 札幌 #010
     日蓮宗経王寺本堂 (M15) *

◆ 加藤忠五郎 (1856 ─ 1930)     BACK
 「大虎」として有名な小樽を代表する大工棟梁、加藤忠五郎は、安政 3 (1856) 年 7月、新潟県三島郡出雲崎町尼瀬で生まれました。本家は「和泉屋」として 250年も続いた大工職の家柄ですが、父忠左衛門は忠五郎13歳のときに亡くなっています。
 「和泉屋」13代目の忠五郎は明治 9 (1876) 年、働くために上京しますが、同14 (1881) 年 7月、25歳で北海道へ渡り、小樽で建築請負業 大虎組を創業します。
 同24 (1891) 年には小樽消防四番組頭となるなど、順調に発展し、同25 (1892) 年ごろの請負高は年間で34万円にも上ったといいます。
 その後、地元で和泉屋唐木店を経営する傍ら、小樽木材業組合長、北海道木材業組合長、小樽商業会議所議員などの要職を歴任しますが、昭和 5 (1930) 年11月、小樽にて75歳で亡くなりました。

 忠五郎が関係した主な建築を次に掲げます。(旧今井呉服店小樽支店を除いて現存)

     龍徳寺金比羅殿 (M22)
     岩永時計店 (M29)
     旧百十三銀行小樽支店 (M41) ─ 小樽 #017
     旧小樽区公会堂 (M44) 基本設計 木子幸三郎 ─ 小樽 #082 / 小樽 #083 / 小樽 #084
     旧北海道銀行 (M45) ─ 小樽 #024 / 小樽 #025
     旧日本銀行小樽支店 (M45) ─ 小樽 #021 / 小樽 #022 / 小樽 #023
     旧今井呉服店小樽支店 (T12) 設計 遠藤於菟 ─ 小樽 #089
     板谷邸 (T15-S2)
     旧水上歯科医院 (S7)
     住吉神社社務所 (S9)

 なお、旧日本銀行小樽支店 (M45) は、DOWNLOAD コーナーの PDF ファイルでもご紹介したとおり、
入札によって富樫文次(東京) に決まりますが、忠五郎はその下請けとして従事したといいます。

◆ 新開新太郎 (1870 ─ 1945)     BACK
 明治中頃から大正にかけて札幌を舞台に活躍した大工棟梁といえば、まず、新開新太郎を掲げるのではないでしょうか。
 新開新太郎は明治 3 (1870) 年12月25日、福井県坂井郡春江村千歩寺村に、農業与右衛門の長男として生まれました。明治19 (1886) 年、16歳で土佐高知の大工職に徒弟として二年間奉公し、さらに、同21 (1888) 年には北海道小樽に渡って加藤忠五郎の「大虎」へ入店します。その後、修業を重ねて腕が認められ、同37 (1904) 年には大虎建築部 札幌出張店 主任となりますが、同40 (1907) 年、札幌において大虎名義で独立します。
 大正11 (1922) 年 6月、北海道土木建築請負業連合会 組合長となって業界の発展に尽力し、また札幌商業会議所議員、札幌区会議員などの要職を歴任し、伊藤亀太郎の後継として札幌土木建築組合長もつとめましたが、昭和20 (1945) 年 8月に亡くなっています。

 新太郎が関係した主な建築を次に掲げます。(*印のついたものは現存)

     旧福山米吉商店 (M40) *
     旧札幌区役所 (M42) ─ 札幌 #001 / 札幌 #002 / 札幌 #003
     旧東北帝国大学農科大学 林学教室 (現 古河講堂) (M42) *
     旧東北帝国大学農科大学 附属植物園 門番所 (M44) * ─ 札幌 #016
     旧北海道拓殖銀行旭川支店 (T2) --- ##
     旧古谷製菓工場 (T5)
     旧今井呉服店 (T5) ─ 札幌 #089 / 札幌 #090 / 札幌 #105
 中でも札幌区役所の新築工事では、工事が発注されると赤字覚悟で仕事をとり、地元の大工と対立したこともあったといいます。
 ## この建物については、REPORT /「建築家矢橋賢吉とその作品について」 [関係作品] B-02 に写真と記事があります。
   そちらもあわせてご覧ください

◆ 伊藤亀太郎 (1863 ─ 1944)     BACK
 札幌で明治中期から大正にかけて、建設業者として独立するための基盤を着実に固めていった人物に伊藤亀太郎がいます。
 伊藤亀太郎は文久 3 (1863) 年12月、新潟県三島郡出雲崎町尼瀬で宮大工伊藤栄吉の二男として生まれました。明治 9 (1876) 年、14歳で地元の大工に弟子入りして修業を積んでいましたが、父の栄吉は北海道・東北へ出稼ぎに出たものの、音信は途絶えたままになっていました。
 同18 (1885) 年 4月、亀太郎は父をさがすため郷里を出て北海道へ渡り、同郷人であった小樽の加藤忠五郎を訪れますが父は見つからず、そのまま札幌へ出て酒井啓次郎のもとで開拓使の仕事 (偕楽園清華亭) に従事します。その後さらに伊達紋鼈、函館を経て、同年 8月、秋田県毛馬内鉱山で13年ぶりに父と再会を果たし、翌年には家族と共に函館で生活をはじめたものの、その年に父栄吉は病気で亡くなってしまいます。
 その後、同22 (1889) 年に江差裁判所の工事に関わった後、小樽の小林茂三郎のもとに落ち着きますが、同25 (1892) 年にはその札幌出張所が開設され、亀太郎は札幌へ移ります。
 そして、同26 (1893) 年 4月に31歳で独立、伊藤組の二代目の長男豊次もこの年に誕生しています。
 同31 (1898) 年に旭川第七師団の工事を大倉土木組 (現 大成建設) が請負いますが、亀太郎は、肝煎阿部久四郎のもとで、その下請けとして従事します。明治40年代には事務所の移転や製材工場を建設するなど、着実に伊藤組としての基盤を固めていきました。
 大正 7 (1918) 年の開道50年記念博覧会では、工期 2ヶ月余の突貫工事で大小50棟もの建物を完成、中でも会場中央の「北極塔」に使用する長さ15 m の長材を無事探し出すなど、一気に名声を上げました。
 札幌商業会議所議員、札幌区土木委員などの要職も歴任しましたが、同12 (1923) 年には長男豊次にすべての事業を委ね、昭和19 (1944) 年 6月、82歳で亡くなりました。

 亀太郎が関係した主な建築を次に掲げます。(*印のついたものは現存)

     ジョン・バチェラー邸 (M31) *
     札幌農学校農学教室 (M34) ─ 札幌 #011
     旭川偕行社 (M35) * ─ 旭川 29/40  旭川 30/40
     札幌農学校図書館・書庫 (M35) ─ 札幌 #012 *
     函館区役所 (M35) ─ 函館 #146 函館 #147
     札幌農学校予科寄宿舎 (M38) *
     札幌停車場 (M41) ─ 札幌 #005
     札幌郵便局 (M43) ─ 札幌 #084
     手宮高架桟橋 (M44) ─ 小樽 #105 / 小樽 #106 / 小樽 #107 / 小樽 #108 / 小樽 #109
     札幌地方裁判所 (M45) ─ 札幌 #115
     函館停車場連絡桟橋及待合所 (T2) ─ 函館 #028
     室蘭機関車庫 (T2) ─ 室蘭 5/18
     函館停車場 (T3) ─ 函館 #150
     北海道長官官邸 (T5)
     室蘭中学校 (T5)
     伊藤組本店事務所 (T7) ─ 札幌 #076
     開道50年記念博覧会第一会場 (T7) ─ 札幌 #025 / 札幌 #026 / 札幌 #027
     北海道銀行札幌支店 (T10) ─ 札幌 #091
     札幌独立教会 (T11)
     北海タイムス社 (T11) ─ 札幌 #109
     北海道拓殖銀行小樽支店 (T12) ─ 小樽 #026 *

◆ 村木甚三郎 (1848 ─ 1924)     BACK
 明治から大正にかけて函館を舞台に活躍をした大工棟梁として村木甚三郎をあげることができます。
 村木甚三郎は、嘉永 1 (1848) 年 3月、新潟県中蒲原郡亀田町で機(はた)を業とする村木林之助の長男として生まれました。15歳で古山藤松のもとに大工の徒弟として奉公し、慶応1 (1865) 年、函館高龍寺の建築工事に師匠と共に参加しますが、明治 2 (1869) 年には函館で独立します。
 その後順調に仕事をこなし、同12 (1879) 年の大火では、その再建工事で稼ぎ、また同19 (1886) 年には釧路集治監の工事を請負って財を成しました。さらに、函館富岡町の棟梁 山田平吉が亡くなると、その家族と子弟を引き取ってさらに事業を拡大します。明治20年代前半の頃で年間請負高は 2〜3 万円にも上ったといいます。同40 (1907) 年の大火後も、函館公会堂 (M43) をはじめとして、大建築を次々とこなして名声を築きましたが、大正13 (1924) 年 3月に亡くなりました。
 ところで、二人の子供たちは、それぞれ建築の道に進んで父の業を助けています。
 長男喜太郎 (1879-1911) は東京の工手学校 (現 工学院大学) を卒業後 (現時点で未確認です)、宮内省内匠寮に入って赤坂離宮や沼津御用邸の建築に関わったものの、その後は官を辞して家業を助けますが、同44 (1911) 年 6月に若くして亡くなりました。
 次男喜三郎 (1882-1928) も工手学校を明治35 (1902) 年 2月に卒業して家業を継ぎます。大正 5 (1916) 年には、国縫にあった馬政局の用地払い下げを受けて造材に力を入れると共に、函館弁天町に木工場も作りました。その後、浅野セメント上磯工場などの建築にも携わりましたが、一方では、同 8 (1919) 年に函館コンクリート会社を創立して社長となります。また、大正11 (1922) 年には第一期函館市会議員に当選、函館木材商組合長などの要職も歴任しましたが、昭和 3 (1928) 年12月に亡くなりました。

 甚三郎親子の関係した主な建築は次の通り。(*印のついたものは現存)

     釧路集治監 (M19) * (現 標茶町郷土館)
     弁天社 (M35)
     旧小林写真館 (M40) * (現 小林家住宅)
     函館区公会堂 (M43) * ─ 函館 #081 / 函館 #082
     函館市立図書館書庫 (T5) *
     浅野セメント上磯工場 (T11)

◆ 池田栄七 (1812 ─ 1878)     BACK
 函館で中川源左衛門率いる中川組と並び、官庁(幕府・奉行所)からの工事を請負った業者に池田屋があります。その池田屋(池田組)の当主が栄七で、文化9 (1812) 年 (一説に文政 1 (1818) 年を生年とするものあり) 、新潟県新潟市九番町で、建築家具を業として新発田藩公に仕える家柄に生まれました。
 箱館の幕府運上所の工事を請負って成功させますが、安政 6 (1859) 年以降は長男直二 (1844-1904)、次男登良二 (1854-1940) とともに箱館築島 ## に永住し、札幌本道 (M5)、幸町埋立 (M11) などの大事業を成し遂げました。函館戦争のときの縁で開拓使松平太郎から特別の恩恵を受けましたが、明治11 (1878) 年 2月に亡くなりました。
 二人の子供たちも父栄七をよく助けました。
 長男直二は弘化 1 (1844) 年、新潟市島町に生まれましたが、江戸に出て大工の修業を積み、さらには長崎、香港、上海にまで渡って航海術、測量術を身に付けました。幕末維新には箱館に渡って父の業を助け、開拓使七重官業試験場の施設等を請負います。明治16 (1883) 年に函館の豪商、初代渡辺熊四郎の要請を受けて、同35 (1902) 年 8月まで金森商船の支配人として活躍し、その縁あって当時の財界人などから店舗や住宅の設計依頼を次々と受けましたが、同37 (1904) 年 7月に東京で亡くなりました。
 次男の登良二は安政 1 (1854) 年 9月、同じく新潟に生まれますが、6歳のときに父と共に箱館に渡ります。父祖の業を継ぐために東京などで新しい技術を身に付け、また、函館末広町では木工場なども経営しました。明治33 (1900) 年 8月から同38 (1905) 年 2月まで函館船渠の技手として建築設計などに携わりますが、その後、町方の請負いに戻って、今市商店、函館毎日新聞社、函館連隊区司令部などの工事を完成させます。同40 (1907) 年 6月、函館大工職組合総組長をつとめ、大正 1 (1912) 年には小樽へ移りますが、昭和15 (1940) 年 1月に亡くなりました。

 池田栄七親子の関係した主な工事(土木を含む)は次の通り。(*印のついたものは現存)

     五稜郭 (1864) *
     札幌本道 (M5)
     開拓使常備倉 (M7)
     開拓使函館支庁金庫 (M7)
     幸町埋立 (M11)
     七重官業試験場 (M11)
     開拓使函館支庁書庫 (M13) *
     金森洋物店 (M13) * (現 市立函館博物館郷土資料館)
     今市商店 (M31)
     函館毎日新聞社 (M31)
     函館連隊区司令部 (M32)
 ## 現在の大町・末広町から豊川町・大手町のあたりにかけて築造された「築島」は、箱館奉行などが幕府に差し
    出した意見書に対する回答として「弁天台場」(安政 3 (1856) 年着工、文久 3 (1863) 年竣工)を援護する目的
    から、沖ノ口台場とともに「築島台場」として計画されましたが、埋立は行なわれたものの、財政難によって台
    場の建設は中止となります。実際に完成したのは「弁天台場」「亀田役所 (五稜郭)」などでした。
BACK