File #001 「博覧会」 絵葉書をすぐにご覧になりたい方は こちら からどうぞ。 BACK
 まず、はじめに・・・・・・。

 北海道 → 博覧会 → 展示 → 博物館 として連想を辿っていくと、その起源は 明治 4 年にまで遡ります。
 明治 4 年、開拓使 (長官 黒田清隆 判官 岩村通俊) は 「偕楽園」 を開設します。札幌で最初の公園です。
 場所は現在の 北 6 条 〜 北 7 条、西 6 丁目 〜 西 7 丁目 のあたり。約 100 町歩もの広い敷地には、官園、育種場、製物場、仮博物場、競馬場、葡萄園、鮭孵化場などが設けられました。

 「偕楽園」 は、御雇い外国人 ルイス・ベーマー などの指導で、庭園も含めて次第に整備されていきますが、明治 13 年 6 月、開拓使工業局の設計で敷地内に休憩所が建てられます。
 開拓長官 黒田清隆が 「水木清華亭 (みずきせいかてい)」 と名付けたこの建物は、現在、市の指定文化財となって一般公開されています。
( JR 札幌駅北口から徒歩 10 分ほどですので、まだご覧になっていない方は、ぜひ訪れてみて下さい )
 開拓使は明治 15 年 2 月に廃止され、同 19 年 1 月に北海道庁が置かれるまでの間、農商務省北海道事業管理局 及び 札幌・函館・根室三県の、いわゆる 「三県一局時代」 となりますが、その前に開拓の成果をご覧頂こうと申し入れをしたところ、同 14 年の明治天皇行幸が実現します。
 一行が札幌へ到着するのは 8 月 30 日ですが、それに合わせるようにつくられたのが 「水木清華亭」 で、実際には 「貴賓接待所」 として建てられたものでした。
 また、宿泊用として用意された建物が、現在、中島公園に移築されている 「豊平館」 ということになります。

 少し話をもどしましょう。
 開拓顧問 H .ケプロン の提案によって、「偕楽園」 内に 39 坪の 「仮博物場」 が竣工したのは明治 10 年のことですが、これは北海道で最初の博物館です。
 その後、展示資料などの増加で手狭となったため、同 15 年 6 月、開拓使工業局営繕課の設計で札幌牧羊場内 (現在の北 3 西 9) に木造二階建て、79 坪の博物場を建築しますが、これが、現在一般公開されている国の重要文化財 「旧北海道大学農学部附属博物館旧本館」 (現 北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園 博物資料展示施設) です。
( この建物は本編でも登場しています。まだの方はこちらをご覧下さい。 ─→ sapporo #017 )
 明治 17 年には農商務省から札幌農学校に移管されて今日に至っています。


◆ 博覧会が開催されていた時代背景などを含めた関連年表を用意致しました。参考までにどうぞ。
月 日 事              項 備 考 (開催場所・見学者数など)
明治2年 (1869) 7. 8 開拓使 設置 開拓使長官 鍋島直正、清水谷公孝 開拓次官、開拓判官 島義勇 任命  
8.15 蝦夷地を「北海道」と改称  
8.30 函館に開拓使出張所を設置  
  4年 (1871) 4.24 開拓使仮庁舎 竣工 (北4東1)  
6.-- 札幌神社 創建  
7.-- 薄野遊郭 設置 札幌本陣 建設 (南1東1)  
8.-- 開拓顧問ケプロン 大学・図書館・博物館設置を建言  
12.-- 開拓顧問ケプロン 農学校設立を建言  
  5年 (1872) 7.-- 開拓使本庁舎 着工  
11. 9 太陽暦採用 (12月3日を明治6年1月1日に)  
  6年 (1873) 11.-- 開拓使本庁舎 竣工  
  7年 (1874) 8. 2 黒田清隆 開拓長官に任命  
11.-- 札幌郡琴似村に屯田兵屋208戸竣工 (明治8年5月入植)  
  8年 (1875) 7.29 開拓使仮学校・女学校を札幌へ移転 札幌学校とする  
10.-- 札幌郡山鼻村に屯田兵屋240戸竣工 (明治9年5月入植)  
  9年 (1876) 7.30 W.S.クラーク 着任  
8.14 札幌学校を札幌農学校として開校 (校長 調所広丈、教頭 W.S.クラーク)  
  10年 (1877) 4.-- W.S.クラーク 帰国 (Boys be ambitious)  
  11年 (1878) 10.15 農業仮博覧会 ( 〜 10.16 ) ( 札幌農学校教授 ブルックスの提案 以後隔年開催 ) 大通西3丁目 7711 人
  13年 (1880) 10. 1 第二回農業仮博覧会 ( 〜 10.5 ) 大通西2丁目-西3丁目 10853 人
  14年 (1881) 9.20 連合米繭共進会 ( 〜 10.9 ) (開拓使及秋田・新潟・石川・福井四県共同) 大通西3丁目 6573 人
  15年 (1882) 2. 8 開拓使 廃止 三県 (札幌・函館・根室) 設置  
10.21 第三回農業仮博覧会 ( 〜 10.25 ) (三県一局連合) 開拓使博物場
  16年 (1883) 1.-- 農商務省に北海道事業管理局 設置 (三県一局時代)  
10.21 北海道物産共進会 ( 農業仮博覧会を改称 函館 )  
  17年 (1884) 7. 2 中島を公園予定地に決定  
10.21 北海道物産共進会 ( 札幌県主催 〜 10.27 ) 大通西2丁目-西3丁目 12548 人
  18年 (1885) 11. 2 北海道物産共進会 ( 〜 ? ) 根室
  19年 (1886) 1.26 三県及北海道事業管理局を廃止 北海道庁 設置 (長官 岩村通俊)  
10.15 北海道物産共進会 ( 〜 10.26 ) 函館
12.-- 中島遊園地を札幌区に編入  
  20年 (1887) 7.25 北海道物産共進会 ( 〜 8.3 ) 北海道物産陳列場 建設 中島公園 11658 人
  21年 (1888) 7.18 北海道物産共進会 ( 〜 7.27 ) 中島公園
9.21 札幌区 中島遊園地内に 北海道海陸産物見本品陳列場 開設  
  23年 (1890) 8. 1 北海道物産共進会 ( 〜 8.25 ) 中島公園
  25年 (1892) 8. 1 北海道物産共進会 ( 〜 8.31 ) 中島公園 71228 人
  26年 (1893) 2. 9 北海道海陸産物見本品陳列場を北海道物産陳列場と改称 (道庁告示)  
4.15 北海道物産陳列場 開場  
  37年 (1904) 6.13 第一回北海道畜産共進会 ( 〜 6.17 ) (軍馬の奨励が目的) 中島公園 北海道畜産協会 主催
  39年 (1906) 4. 5 北海道物産陳列場 改築工事 着工 中島公園
7.14 北海道物産陳列場 竣工 中島公園
9.10 北海道物産陳列場 開館 北海道物産共進会 開催 ( 〜 9.30 )
北海道農会・北海道畜産協会・北海道蚕糸会・北水協会・北海道林業会
・北海道園芸協会 共催
中島公園 出品数 19372 点
  40年 (1907) 8.21 第一回北海道馬匹共進会 第二回北海道畜産共進会
8.25 函館大火により中止
函館
11.-- 第一回札幌菊花品評会 中島公園
  41年 (1908) 8.11 北海道水産共進会 ( 〜 ? ) 小樽
8.15 第二回北海道馬匹共進会 第三回北海道畜産共進会 ( 〜 8.24 ) 中島公園
  42年 (1909) 第一回室蘭外 5 郡畜産共進会
第一回山越郡牛馬共進会
第一回釧路畜産共進会
 
  43年 (1910) 1.-- 第一回区会において「公園使用規則」決議 中島遊園地を中島公園と公称  
5.19 ハレー彗星 地球に接近 ( ゚.゚ ) ?  
8. 1 北海道汽車博覧会 ( 〜 8.31 ) ( 小樽新聞社 主催 ) 道内主要停車場構内
( 函館 〜 室蘭 )
  44年 (1911) 第五回日高産馬共進会  
  45年 (1912) 7.30 明治天皇 崩御 「大正」と改元  
8.-- 第四回北海道畜産共進会  
大正2年 (1913) 10.20 後志支庁管内物産共進会 ( 〜 10.26 ) 倶知安
10.23 空知外 3 郡物産共進会 ( 〜 10.29 ) 岩見沢
11.29 大正7年の開道五十年祭 記念事業として北海道拓殖博覧会 開催、
北海道史編集 (編集主任 河野常吉)、開拓功労者の顕彰など、
札幌記者クラブの提唱により、建議案として道会に提案可決
 
  3年 (1914) 7.-- 第一次世界大戦 勃発 8月参戦 (〜 大正8年)  
  4年 (1915) 4. 8 北海道庁に 開道五十年記念事業調査委員会 設置  
8.10 第三回北海道衛生展覧会 ( 〜 8.21 ) 小樽
9. 5 天塩水陸物産共進会 ( 〜 9.9 ) 留萌
10. 6 上川外 4 郡 1 区連合物産共進会 旭川
11. 5 第二回十勝物産共進会 帯広
  5年 (1916) 5.-- 中條精一郎 開道五十年記念博覧会 建築設計顧問嘱託  
8.15 畜産馬匹共進会 ( 〜 8.28 )  
9.21 網走外 3 郡物産共進会 ( 〜 9.25 ) 網走
10. 6 上川外 4 郡 1 区連合物産共進会 ( 〜 10.15 ) 旭川
10.-- 札幌市街馬車軌道 札幌電気軌道鰍ニ改称  
11.-- 開道五十年記念博覧会札幌区協賛会 設立  
  6年 (1917) 8.10 第四回北海道衛生展覧会 ( 〜 8.21 ) 函館
  7年 (1918) 8. 1 開道五十年記念博覧会 ( 〜 9.19 ) 中島公園・停車場通・小樽
140余万人
8. 1 児童博覧会 ( 〜 9.19 ) (北海タイムス主催) 大通西2丁目 30余万人
8.12 札幌電気軌道 電車路線営業開始
(南一条線・停公線[札幌停車場前-中島公園]・南四条線)
 
8.15 開道五十年記念式典 開拓功労者 130 人を表彰 中島公園
8.16 北海道産馬共進会 ( 〜 8.25 ) 中島公園
8.-- 四翁表功之碑・開道五十年記念碑 建立 中島公園
  10年 (1921) 大正衛生博覧会  
  11年 (1922) 8. 1 札幌区に市制施行 (函館・小樽・旭川・室蘭・釧路 共)  
  15年 (1926) 8. 1 国産振興博覧会 ( 〜 8.30 ) (北海タイムス創刊25年記念) 中島公園 約50万人
10. 1 札幌市に「市街地建築物法」適用 #  
12.25 大正天皇 崩御 「昭和」と改元  
昭和6年 (1931) 7.11 小樽海港博覧会 ( 〜 8.20 ) 小樽市
7.12 国産振興北海道拓殖博覧会 ( 〜 8.20 ) 中島公園
  12年 (1937) 7.15 札幌文化振興博覧会 ( 〜 8.16 ) 中島公園
この年表の作成にあたっては多くの文献を参考にさせて頂きましたが、記述に間違い等がございましたら訂正致しますので、
お手数でもご連絡頂ければ幸いです。
# 「市街地建築物法」 に関しては、いずれ別の機会で特集を組みたいと考えています。しばらくお待ち下さい。(^^ゞ

 当然のことですが、明治、大正、昭和と時代が進むにつれて開催される博覧会の規模も大きなものになっていきました。しかしこれらの中で、その後の博覧会にも大きな影響をあたえ、街の姿まで変えてしまったものと 言えば、やはり大正 7 年に開催された 「開道五十年記念博覧会」 でしょう。
 「開道五十年記念博覧会」 は大正 7 年 8 月 1 日から 9 月 19 日までの 50 日間、札幌中島公園を中心に開催された大博覧会でした。
 第一会場は中島公園、第二会場は停車場通 (北1西4) の工業館、第三会場は小樽の水族館。 現在の小樽市水族館は、昭和 33 年 7 月に開催された北海道博覧会「海の会場」の施設を市が引き継いで翌 34 年に開館したもので、まったく関係はありません。
 このうち、第一会場の中島公園には 「迎賓館」 「式場」 「農業本館」 「同 別館」 「拓殖館」 など、59 棟の建物が建ち並びました。第二会場の 「工業館」 は、博覧会終了後に 「北海道物産陳列場」 として利用されますが、昭和 4 年に北海道庁から札幌商工会議所に移管されて物産館となり、昭和 9 年に札幌グランドホテル新築のため取り壊されました。また、函館五稜郭内にも 「歴史館」 が開設されたといいます。
 会期中の入場者数は、およそ 142 万 5000 人、出品点数は、およそ 44300 点でした。大正 6 年末での北海道の人口がおよそ 208 万人余り、札幌の人口がおよそ 9 万人余りだったことを考えると、その盛況ぶりが伺えます。札幌停車場前には大きな歓迎門も建ちました。また、中島公園の会場正門は午前 8 時に開門し、各展示館は午後 5 時閉館でしたが、閉門は午後 11 時。池の中には噴水が設けられ、会場中央の 「北極塔」 や各展示館にはイルミネーションが輝いていました。8 月 15 日にはメインイベントである 「開道五十年記念祭」 が、また、9 月 1 日には札幌神社境内において 「札幌開府五十年記念式典」 が挙行されました。

 さらに特筆すべきは、それまで市民の足であった馬鉄 (馬車鉄道) が、博覧会開催に合わせて ( ? ) 電車に変わった点です。(馬車鉄道は 「北海道開拓の村」 で復元され実際に乗車することができます。札幌を訪れた際にはぜひどうぞ。)

 ここで、このあたりの背景について少し詳しく見てみましょう。
 明治 42 年 2 月の 札幌郡平岸村字穴の沢 〜 同 藻岩村山鼻 間の完成以来、札幌石材馬車鉄道株式会社の路線は次第に市民の足となりつつありましたが、同 45 年には札幌市街馬車軌道株式会社と改称、さらに路線を伸ばしていきました。
 こうした中、北海道記者クラブが大正 2 年 11 月、明治 2 年の開拓使設置から五十年となる大正 7 年に

   @ 開道五十年記念祭の実施
   A 北海道拓殖博覧会の開催
   B 北海道史の編纂

などを提唱し、開拓功労者の顕彰なども含めて道会において決定されると、馬鉄関係者の間には、博覧会開催までに電気軌道の経営を望む声が高くなっていきました。
 大正 4 年には、以上の三大事業に関する調査会規程が公布されます。
 大正 5 年 10 月、「札幌市街馬車軌道株式会社」 は 「札幌電気軌道株式会社」 と改称して工事も本格化していきます。ところが、電車・レールなどは英国より購入する予定でしたが、ヨーロッパは大正 3 年 7 月から始まった第一次大戦の戦乱の中にあり、断念せざるを得ませんでした。
( これには、わが国も 8 月より参戦し、終戦を迎えたのは大正 8 年のことです。)
 それで急遽米国より取り寄せたものの間に合わず、実際に営業が開始できたのは 8 月 12 日のことでした。

   このとき開通した路線は以下の 3 路線です。

   @ 南一条線 [ 南 1 条西 14 丁目 〜 同 東 2 丁目 ]
   A 停公線 ( 停車場公園線 ) [ 北 4 条西 4 丁目札幌駅前 〜 中島公園 ]
   B 南四条線 [ 南 4 条西 3 丁目 〜 同 東 3 丁目 ]
 大正 5 年 5 月、中條精一郎は 「開道五十年記念博覧会」 の建築設計顧問を嘱託されます。中條精一郎については、すでに本編の札幌農学校に関する絵葉書や "CLOSE UP / #002 札幌農学校" のところでも登場している建築家ですが、もうご覧になりましたか。まだの方はぜひあわせてご覧下さい。

□ 札幌農学校に関する絵葉書
□ CLOSE UP / #002 札幌農学校
開道五十年記念博覧会 配置図

※ この配置図は 『曾禰達蔵 中條精一郎 建築事務所作品集』 昭和14年 から引用させていただきました。

◆ 簡単なものですが、中條精一郎の年譜を用意致しました。参考までにどうぞ。
明治元年 (1868) 4.18 米沢藩士中條政恒の長男として米沢に生まれる
  5年 (1872) 9.-- 中條政恒 福島県典事となり、家族一同 福島へ移住
  14年 (1881) 8.-- 中條政恒 太政官少書記官となり、家族一同 東京へ移住
  18年 (1885) 共立学校 (後の開成中学) へ入学 当時 外国語学校在学中の伊東忠太と、同郷出身者として交流あり
  21年 (1888) 9.-- 第一高等学校へ入学
  28年 (1895) 7.-- 第一高等学校 卒業 帝国大学工科大学造家学科へ入学
  31年 (1898) 4.--
7.--
西村茂樹 (教育家) の次女葭江と結婚
帝国大学工科大学造家学科を卒業
  32年 (1899) 2.10
5.--
7.10
9.15
10. 2
長女百合子 誕生
任 文部技師 ( 〜 36.12 )
札幌農学校内 文部省建築掛出張所への出張を命ぜられる
任 文部省建築掛札幌出張所長 ( 〜 35. 2 )
札幌農学校土木工学科建築学講師 嘱託 ( 〜 35. 3 )
  33年 (1900) 4.14
父政恒 逝去
札幌農学校農学教室 (文部省)
  34年 (1901) 8.12
長男國男 誕生
札幌農学校動植物学教室 札幌農学校昆虫及養蚕学教室 札幌農学校農業経済及農政学教室 (文部省)
  35年 (1902)

5.26
札幌農学校図書館・書庫 札幌農学校農芸化学教室 札幌農学校博物館附属事務室 (文部省)
上京
任 文部省総務局建築課設計掛長 ( 〜 36.12 )
  36年 (1903) 12.-- 依願免本官
  37年 (1904) 10.-- ケンブリッヂ大学 入学 ( 〜 38.12 )
  40年 (1907) 6.--
7.--
帰朝 任 文部技師
任 文部大臣官房建築課設計掛長兼庶務掛長
  41年 (1908) 1.--
7. 5
官を辞し、曾禰達蔵と協同で曾禰中條建築事務所を東京丸の内に開設
三男英男 誕生
  42年 (1909) 第10回関西府県連合共進会建築設計 嘱託
  43年 (1910) 群馬県主催 一府十四県連合共進会建築設計 嘱託
  44年 (1911) 11.-- 富山県主催 連合共進会建築事務 嘱託
大正2年 (1913) 4.--
6.--
東京大正博覧会顧問 嘱託
任 国民美術協会 #1 会頭 ( 〜 大正 8.6)
  3年 (1914) 6. 6 辰野金吾らと建築士会 創立
  4年 (1915) 7. 2 四女壽江子 誕生
  5年 (1916) 5.-- 開道五十年記念博覧会建築設計顧問 嘱託
  6年 (1917) 1.--
4.--
建築士会、日本建築士会と改称
任 日本建築士会 理事 ( 〜 14.3 )
  7年 (1918) 5.--
8.--
9.--
会計検査院技術顧問 嘱託 ( 〜 昭和 11.1 )
開道五十年記念博覧会 第一会場 (曾禰中條建築事務所 所員中村順平が協力)
郵船ビル建築 ( 工期 大正9年11月 〜 同12年5月 ) の用務で渡米
  8年 (1919) 2.--
6.--
帰朝
任 工業審査委員会 委員
  9年 (1920) 11.-- 任 日本建築士会 建築士法調査委員 ( 〜 13.11 )
  10年 (1921) 3.--
4.--
10.--
任 平和博覧会 準備委員 ( 〜 10.10 )
任 日本建築士会 会長 ( 〜 13.3 )
平和博覧会東京市特設館建築工事設計監督に関する事務 嘱託
  11年 (1922) 8.-- 札幌独立基督教会 (曾禰中條建築事務所 担当高松政雄)
  12年 (1923) 1.-- 鹿児島県庁舎建築顧問 嘱託
  13年 (1924) 7.--
10.--
11.--
国民美術協会会頭 黒田清輝 逝去により、再び会頭に推挙 ( 〜 昭和 8 )
任 煖房冷蔵協会 会長 ( 〜 14.9 )
日本建築士会建築士法実行促進委員 ( 〜 昭和 11.1 )
  15年 (1926) 2.--
3.--
R.I.B.A. 名誉会員
任 建築学会 副会長 ( 〜 昭和 3.2 )
昭和2年 (1927) 4.--
12.--
日本建築士会 理事 ( 〜 昭和 4.3 )
三井銀行小樽支店 (曾禰中條建築事務所)
  3年 (1928) 4.--
8. 1
日本建築士会 会長 ( 〜 昭和 4.3 )
三男英男 逝去
  4年 (1929) 5.20 一家を挙げて渡欧 #2
  5年 (1930) 4.-- 任 日本建築士会 理事 ( 〜 昭和 7.3 )
  6年 (1931) 4.--
9.--
任 日本建築士会 建築士法実行促進委員会 委員長 ( 〜 昭和 11.1 )
千代田生命保険相互会社北海道支部 (曾禰中條建築事務所)
  9年 (1934) 6.13 妻葭江 逝去
  10年 (1935) 3.-- 建築学会創立五十周年記念会 委員 ( 〜 昭和 11.1 )
妻葭江の遺稿集『葭の影』 出版
  11年 (1936) 1.30 逝去 病名 腎臓結石 享年 69 #3
上記の年譜で赤色の文字は、中條が関係した北海道関係の建築作品を示しています。
#1 「国民美術協会」は日本画・西洋画・彫塑・建築・装飾美術など諸美術の総合団体として この年 5 月に創立されています。
#2 『曾禰達蔵 中條精一郎 建築事務所作品集』 所収の中條精一郎 年譜  [昭和4年5月20日]  のところに記載されているものですが、中條の、家族を想う優しい人柄の伺えるエピソードが載っていますので、ここでご紹介したいと思います。
( ─以下引用─  原文のまま )
妻葭江豫て病の爲め年々視力減衰の状態にあり、加ふるに前年三男英男を喪ひしより快々として愉しまず、偶々長女百合子露都留学中病を獲て病後をパリに養はんとの報あり、精一郎葭江を伴ひて之を見舞ひ旁々葭江が失明せざらん内にパリ、ロンドン等を見物せしめ英男の死に由る彼女の悲歎を慰め併せて子女の教育の爲め此機を以て長男國男夫妻、四女壽江子を加へ一行 5 名にて海路渡歐に決せり。
#3 中條は生涯最後の作品となる 「岩崎男爵熱海別邸」 の工事視察を兼ね、前年末より友人と伊豆蓮台寺温泉に赴き、熱海を経て箱根の宿に戻ったところで発病、すぐに慶応大学病院に入院しましたが、29日夜に容体が悪化、30日未明に息を引き取りました。
葬儀は曾禰達蔵委員長により 2 月 1 日に青山斎場で執り行われ、青山墓地に埋葬されました。
この年表の作成にあたっては次の文献に掲載されている年表を参考にさせて頂きました。
* 『曾禰達蔵 中條精一郎 建築事務所作品集』 昭和14年
* 『中條精一郎』 国民美術協会 編 昭和12年
 ところで、大正 7 年の 「開道五十年記念博覧会」 にあわせて、もう一つの博覧会が開催されています。
その名も 「児童博覧会」。会期もまったく同じだった北海タイムス社主催のこの博覧会は、大通西 2 丁目、札幌郵便局前の広場を会場として全道からの児童の成績品などを展示し、あわせて動物園も併設された、子供のための博覧会でした。期間中の入場者は 30 余万人に上ったといいます。

 その後、「開道五十年記念博覧会」 以降の大きな博覧会を見てみると、
国産振興博覧会 ( 大正 15 年 ) 及び 国産振興北海道拓殖博覧会 ( 昭和 6 年 ) を上げることができます。

 国産振興博覧会は、大正 15 年 8 月 1 日 〜 同 8 月 30 日の日程で、「北日本文化の顕揚」 「優良国産品の生産及び愛用を奨励し、殊に本道各地方の生産物を各府県に宣伝する便宜を図ること」 を目的として開催されました。会場の設計は北海道庁建築課の福岡五一・萩原惇正 他が担当し、施工は伊藤組が請負いました。3300 点余りの出品があり、会期中の観覧者もおよそ 50 万人に上りました。

 また国産振興北海道拓殖博覧会は、昭和 6 年 7 月 12 日 〜 同 8 月 20 日の日程で、第一会場 中島公園、第二会場 北海道物産館 で開催されました。基本設計 岡田信一郎、実施設計は北海道庁建築課の福岡五一 他が担当しました。第一会場だけでも 160 棟余りが建てられ、その規模もたいへん大きなものでした。
 前置きが少し長くなってしまいましたが、以上のことなどを踏まえながら、「博覧会」 をテーマとした絵葉書群をご覧下さい。なお、絵葉書ごとのコメントは省略してありますのでご了承下さい。
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