※ 本編には掲載されていない絵葉書です。画像、タイトルをクリックすると拡大して見ることができます。
File Index
# 019 麒麟の翼 ミステリー作品を絵葉書的な視点から ・・・・・
# 018 大通公園 100 周年 札幌市民の心にたくさんの思い出を刻む空間です ・・・・・
# 017 『観光の札幌』 今から 70 年以上も前、札幌の街を観光するための雑誌です ・・・・・ 
# 016 武林写真館 是れ実に札幌写真界に於ける嚆矢にして ・・・・・ 

# 015 汽車博覧會 ちょっと変わった博覧会です ・・・・・ 
# 014 6 月 1 日 藻岩山の 「 山開き 」 です ・・・・・
# 013 謹賀新年 年賀状の絵葉書 ・・・・・
# 012 地図の絵葉書 絵葉書サイズの札幌市 ・・・・・
# 011 南満州鉄道株式会社 たった一枚の海外の絵葉書 ・・・・・

# 010 札幌まつり 明治 12年からの恒例行事 ・・・・・
# 009 橇美人 開陽亭の前で記念写真? ・・・・・
# 008 10 月 14 日 この日は何の日? ・・・・・
# 007 明治40年代―小樽 文字通り、クローズアップです・・・・・
# 006 北炭 北海道にとっては馴染みの深い「北炭」について少しばかり・・・・・

# 005 武徳殿 「武徳殿」と聞いて ピン とくるのは、昔の札幌医科大学キャンパスを知る人かも・・・・・
# 004 中将湯 TV-CM でお馴染み、「ツムラ」といえば「バスクリン」ですが、もともとは漢方の会社・・・・・
# 003 海の日 「海の日」は今年から 7月の第三月曜日に・・・・・
# 002 札幌農学校 ここで問題です!! 札幌農学校と関係の深い建築家といえば・・・・・?
# 001 狐生擒隊 北方領土よりも遠い島で、キツネ、ですか・・・・・

 
File #019 麒麟の翼 BACK
東野圭吾の原作が映画化され、東宝の配給によって今年の 1 月 28 日から全国で公開が始まった
『 麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜 』 ( 主演 阿部 寛 ) ─── 。
1 月 28 日と 29 日の初日二日間で興行収入が 2 億 7600 万円余、観客動員数は 21 万 7000 人余で、ランキング初登場 2 位を記録したそうですが、
今回の CLOSE UP は、その中で登場する " 麒麟 " について少しだけ ・・・・・ 。
当サイト TOP ページの 「 一枚の絵葉書 」 でも二度ほど日本橋に関するものが登場していますが、
映画の中でも重要な KEYWORD となっている 「 麒麟 」 とは、その日本橋の中央にある柱につけられた装飾のことです。 ( 東京にお住まいの方はご存知だと思いますが ・・・ )

日本橋については 「 一枚の絵葉書 」 のほか、道外編 #01 大東京 ─ 017 に掲載しているものだけですが、東京の絵葉書の題材としては定番ともいえるもので、非常に多くのものが発行されています。
ここで手元にあるものの中から何点かを紹介いたします。
# 01 東京日本橋
 
# 02 日本橋開通式紀念 駿河町より見たる富士山
# 03 麒麟形鑄銅ヲ以テ装飾セル日本橋ノ電燈柱
 
# 04 ライオン形鑄銅ヲ以テ装飾セル日本橋ノ電燈柱   # 05 徳川公揮毫ノ日本橋橋標
ここに掲げた絵葉書のうち、[ # 03 麒麟形鑄銅ヲ以テ装飾セル日本橋ノ電燈柱 ] に見えている装飾が 「 翼をもった麒麟 」 の像です。
江戸時代の初めから五街道 ( 東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道 ) の基点として整備されてきた日本橋ですが、映画の舞台ともなった現在の日本橋は明治 44 年 ( 1911 ) 4 月 3 日に開橋式が行なわれたもので、平成 11 年 ( 1999 ) 5 月 13 日には国の重要文化財に指定されています。

ではその新しい日本橋建設の経緯を簡単に見てみましょう。
ここで一人の建築家が登場します。彼の名は妻木頼黄 ( 1859 〜 1916 ) ─── 。

彼の経歴など、詳しくは REPORT 「 建築家矢橋賢吉とその作品について 」に記載してありますので省略しますが、当時、大蔵省臨時建築部長であった彼が明治 40 (1907) 年に 東京市技師長 日下部辨二郎 と会合の中で日本橋改築の話題となった際に、日下部が妻木に橋のデザインを担当する適当な建築家の推薦を依頼したところから話は始まります。

妻木は、彼の後輩でもある 三橋四郎 が東京市営繕課長として在職しているので、東京市主任技師 米元晋一 と共同で設計し、自分は全体の相談役として参加できれば、ということになりました。
しかし、実際に設計が進んでいたところで三橋が東京市を去ってしまい、妻木が直接設計を担当することとなったわけです。
橋全体のデザインは五十分の一の橋の模型も含めてまもなく出来上がりましたが、上部装飾のデザインについては相当苦心した様子が資料などから伝わってきます。
ここでその一部を紹介しましょう。

「 新日本橋の装飾は、橋の中央両側に、高さ三十尺の大燈柱各一基、橋の両端左右に高さ十八尺の燈柱各一基、即ち合計六基と、更に其中央と両端の間に高欄の単調を破りて凸起せしめたる小燈柱各一個宛を建設せり。燈柱は何れも青銅製方錐柱にして、其頭部及び柱身には、一個又は数個を組合せたる花形飾燈を設く、・・・ ( 中略 ) ・・・ 中央燈柱○○下には獅子面を付し、其下には榎の葉を花環の如くに懸けたる一株の松樹を現はし、之を数個の帯金物にて結束せる模様を鋳出し、更に下りて柱座即ち台石の左右には、高さ六尺の青銅製牝牡の想像的麒麟を蹲踞せしむ。 」
( 『 日本橋紀念誌 』 (明治44年4月発行) 所収 「 新日本橋の装飾 」 妻木頼黄 )

さてその翼をもった麒麟像などの装飾物ですが、当時の東京美術学校 ( 現 東京芸術大学 ) が東京市から委嘱を受けて製作することとなり、麒麟及び獅子の原型製作は渡邊長男※1、鋳造は岡崎雪聲※2の工場が担当することとなりました。( 東京美術学校の製作主任は 津田信夫 助教授 )

※1 渡邊長男 ( 1874 - 1952 ) 明治から昭和にかけて活動した彫刻家。大分県出身。東京美術学校に入学し山田鬼斎に師事する。人物彫刻の作品が多く、広瀬中佐像(万世橋駅頭 昭和22撤去)・太田道灌像(東京国際フォーラム 内)など多数。彫刻家の 朝倉文夫 ( 1883 - 1964 ) は実弟。
 
※2 岡崎雪聲 ( 1854 - 1921 ) 明治から昭和にかけて活動した鋳造師・彫金家。京都府出身。21歳で上京し彫金家 鈴木長吉の門人となる。明治23年 東京美術学校鋳金科教師、同29年鋳金科教授となり、津田信夫らを育てる。
西郷隆盛像(上野公園)・広瀬中佐像など多数の作品がある。渡邊長男は娘婿。
   
妻木頼黄   日下部辨二郎   米元晋一
         
   
津田信夫   岡崎雪聲   渡邊長男
「 獅子 」 のデザインについては、装飾全体の監督者である妻木から 「 欧羅巴のものにライオンが楯を持っているのがあるので、それを日本式に考えてもらいたい 」 という要望があり、純西洋式のライオン、徳川時代の狛犬、鎌倉時代のもので奈良手向山神社の狛犬を模したもの、の三種類からその雛形を妻木邸に持参し、日下部技師長・樺島橋梁課長・米元主任技師らとともに選考の結果、鎌倉時代のものに決定しました。また、楯の代わりに東京市の徽章を使用することもこのときに決まっています。
上に掲げた絵葉書のうち、[ # 04 ] 及び [ # 05 ] が 「 獅子 」 の像です。
( 徽章は明治 22 年 12 月の東京市会で決定。昭和 18 年の都制施行に際し、東京都の紋章として受け継がれています )

一方、今回の CLOSE UP の KEYWORD でもある 「 麒麟 」 のデザインについては、もともと形式があるはずもなく、頭が龍、胴が鹿、これに羽毛が生えて火焔が付き、一度飛翔すれば一瞬千里という全くの想像上のものを、装飾柱の下部で、奥行き二尺、幅二尺ニ寸という狭い台座に据え付けるわけで、そのデザイン的な調和にはたいへん苦心された様子が資料からうかがえます。

また、「 麒麟 」 は古来から絵でも彫刻でも羽のないものが普通でしたが、日本橋が里程の元標でありここから翔けるという意味に加えて、装飾柱に添えて見た場合の釣合いも考えた結果、羽の生えたものとすることが決まりました。そこで、模型で 「 翼 」 と 「 鰭 」 の両方を製作して検討したところ、「 鰭 」 の方が面白いということで、「 鰭 」 に決まりました。
つまり 「 麒麟の翼 」 ではなくて 「 麒麟の鰭 」 だったわけです。(^^ゞ  (H24.4)
 
新日本橋装飾の麒麟
( 開橋記念日本橋志 )
  橋上より見たる燈柱並に麒麟の装飾
( 開橋記念日本橋志 )
新日本橋の装飾 ( 其一 ) 獅子の原型
( 日本橋紀念誌 )
 
新日本橋の装飾 ( 其二 ) 麒麟の原型
( 日本橋紀念誌 )
工場に於ける渡邊長男氏
( 日本橋紀念誌 )
岡崎雪聲氏工場 (其一) 獅子及麒麟鑄形製作の光景
( 日本橋紀念誌 )
 
新日本橋装飾物取付の光景
( 日本橋紀念誌 )
「建築世界」 第五巻 第五号 口絵 ( 明治44年5月 )
※ 今回の CLOSE UP をまとめるにあたっては、次の資料を参照させて頂きました。
    『日本橋紀念誌』   明治44年4月 3日 日本橋紀念誌発行所 発行
    『開橋記念日本橋志』 明治45年3月13日 東京印刷株式会社 発行
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File #018 大通公園 100 周年 BACK
札幌市では、明治 44 ( 1911 ) 年に植栽などが行なわれて現在の公園としての原型が完成された大通公園の 100 周年を記念して、 9 月 12 日から 19 日まで 「 記念ウィーク 」 が開催され、シンポジウム、100 歳記念バースデーパーティーなど、さまざまなイベントが開かれました。

明治 4 ( 1871 ) 年、北側の官庁街と南側の商店街・住宅街を、火災の延焼から防ぐ 「 火防線 」 として整備された空間は、現在では 「 YOSAKOI ソーランまつり 」 や 「 雪まつり 」 の会場として世界的にも知られるようになりました。全長 1.5 キロメートル、幅 65 メートル、面積は 7.8 ヘクタール。今も昔も札幌市民にとって安らぎの空間です。

今回のイベントにあわせて、絵葉書 ( 一部未公開だったものも含まれています ) と簡単な年表を用意致しました。どうぞご覧下さい。  (H23.10)

絵葉書で見る大通公園
大通公園関連年表
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File #017 『 觀光の札幌 』 BACK
「 絵葉書 」 に関する CLOSE UP ではありませんが ・・・・・ 。
札幌市の外郭団体である「
社団法人 札幌観光協会 」。
さっぽろ雪まつり・さっぽろ夏まつりなどの運営、さっぽろホワイトイルミネーションの実施など、
札幌を訪れる国内外からの多くの観光客にもすっかり有名となった同協会ですが、その創立は古く、
昭和 11 ( 1936 ) 年 5 月 16 日に、当時の橋本正治札幌市長を会長として設立総会が開催されています。そして、その翌年の昭和 12 ( 1937 ) 年 1 月 20 日に創刊されたのが、今回紹介する 『 觀光の札幌 』 です。

奥付けには、" 昭和 12 ( 1937 ) 年 1 月 20 日 札幌觀光協會 発行 其水堂 金井印刷所 印刷 定價 金參拾銭 " とあります。

実はもう随分前のことでいつだったか全く覚えていないのですが、札幌の郷土史料として大変参考になるものと考え、同書を市内の古書店で購入しました。
今回はこの 『 觀光の札幌 』 に掲載された広告を中心に紹介したいと思います。広告は B5 版 ( 多少の違いはありますが ) のページ全体を使ったものと上下二段で組んだものとがありますが、広告が横長のものは上下二段組の一部と考えて頂ければ幸いです。
広告紹介の前に、ここで参考のため、『 觀光の札幌 』 の目次を先に掲載しておきましょう。目次は見開きで 2 ページとなっています。
(別ウィンドウで開きます。こちら からどうぞ。)

また巻頭には 札幌觀光協會長 橋本正治 氏の 「 發刊の辭 」 が掲載されています。
(別ウィンドウで開きます。こちら からどうぞ。)

では、いよいよ広告を ・・・・・・ 。 ( すべて別ウィンドウで開きます )
※ 雑誌に掲載されている広告すべてではありません。ご了承下さい。
「丸井今井」
「北の誉」
「札幌グランドホテル」
「五番舘」
「定山渓鐵道」
「札幌水力電氣」
「日本清酒」 ( 千歳鶴 )
「北海道信用購買販賣組合聯合會」 ( 略稱 北聯。 現在の " ホクレン "。)
「藤井商店」 ( 現在の " 大丸藤井セントラル " 。)
「帝國製麻」
「豊平館」
「三八」
「千秋庵」
「富貴堂」
「鹿の湯クラブ」
「石田屋」
「古谷製菓工場」
「百留屋」
「丸惣佐々木旅館」
「北海道製酪販賣組合聯合會」 ( 商標 雪印。 現在の " 雪印乳業 " 。)
「三越」
「大日本麥酒」 ( サッポロビール )
最後に、同誌の巻頭部分に綴じ込まれている 「 札幌觀光主要案内図 」 を紹介します。( 下の図 )
大きなサイズのものも用意致しました。 こちら からどうぞ。
(H21.11)
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File #016 武林写真館 BACK
日本における写真技術の発達は、幕末の開港場であった長崎・横浜・箱舘で、
オランダ・アメリカ・ロシアなどの外国人から伝えられたのがその始まりとされ、
長崎の上野彦馬 ( 1838 〜 1904 ) 、横浜の下岡蓮杖 ( 1823 〜 1914 ) とならんで、北海道箱舘では木津幸吉 ( 1830 〜 1895 ) が初期の写真技術者といわれています。

木津幸吉は 1830 ( 天保元 ) 年 1 月 15 日、
越後國新発田 ( 現 新潟県新発田市 ) に生まれました。
1859 ( 安政 6 ) 年に足袋職人として箱舘に渡り、弁天町で仕立屋を始めたのち会所町に店舗を構えますが、郷里へ向かう船中で外国人より写真機を求め、箱舘に戻ってからは、初代ロシア領事ゴスケヴィッチ ( Goskewitch 1858 年 9 月着任 仮領事館は実行寺 初代領事館の建物は 1861年春に竣工 ) 、領事館医師ゼレンスキー ( Zalensky ) より写真術を学びました。
1864 ( 元治元 ) 年には、新地新町 ( 現 船見町 ) に北海道初の写真館を開業します。
( 函館市内にある『北海道写真発祥の地碑』はこの開業 100 年を記念したものです )
1869 ( 明治 2 ) 年には上京し、東京浅草で写真館を開いて営業を続けていましたが、
1895 ( 明治 28 ) 年 9 月 27 日、65 年の生涯を閉じました。

この木津幸吉から写真術を学んだのが田本研造 ( 1832 〜 1912 ) です。
田本研造は 1832 ( 天保 3 ) 年 4 月 8 日、
紀州國牟婁郡神上村 ( 現 三重県熊野市神川町 ) に生まれました。
1854 ( 安政元 ) 年、医学を志し、長崎の吉雄圭斉 ( 1822 〜 1893 ) のもとでオランダ医学及び西洋科学を学び、1859 ( 安政 6 ) 年、長崎奉行通詞 ( 通訳 ) 松村喜四郎の箱舘転勤に同行して箱舘に移り住み、その後松前藩の藩医をつとめたといわれています。
さらに慶応年間には木津より写真術を学んで写真師としての活動を始めましたが、その頃右足に凍傷から壊疽を病んで領事館医師ゼレンスキーの手術により隻脚となります。田本はそのゼレンスキーから湿板写真法を学びました。


田本は 1869 ( 明治 2 ) 年に木津が上京した際にはその写真資材を譲り受けて写真場を設け、1871 ( 明治 4 ) 年 8 月 20 日付で開拓使の御用写真師となり、同年 8 月〜 9 月にかけて札幌を中心に開拓の記録写真を撮影、翌 1872 ( 明治 5 ) 年 3 月 29 日には開拓使凾館出張所から全 158 枚の写真が明治政府に提出されています。
( これらは札幌を撮影した最も古い写真といわれています )

さらに、同年に内澗町、
1876 ( 明治 9 ) 年には会所町八幡宮前に 100 坪を超える写真場を開業します。
上の写真がそれですが、残念ながら、1879 ( 明治 12 ) 年 12 月 6 日の大火 [ 午後 8 時半頃 堀江町 ( 現 末広町 ) から出火 2326 戸 33 ヶ町焼失 ] で焼失してしまいます。
晩年は外出や撮影もせず、自宅でレンズを磨いていたらしく、1912 ( 大正元 ) 年 10 月 22 日、81 歳で亡くなりました。

ところで ・・・・・ 、
開拓記録の撮影に同行したのは弟子の井田吉 ( 1845 〜 1911 亀田郡大野町 出身 ) でしたが、
田本研造にはもう一人の弟子がいました。

彼の名前は武林盛一 ( 1842 〜 1908 ) 。田本研造の一番弟子です。
この [ File # 016 ] では、その 「 武林写真館 」 の絵葉書についてご紹介致します。

絵葉書をご覧頂く前に、まず彼について少しだけ ・・・・・ 。

武林盛一 ( 幼名 亀蔵 ) は 1842 ( 天保 13 ) 年 1 月 16 日、陸奥國弘前に生まれました。しばらくして母を亡くした亀蔵は廻船業 滝浦萬五郎の養子に入り、萬五郎の改姓にともなって武林姓を名乗ります。

1858 ( 安政 5 ) 年に蝦夷 ( 北海道 ) へ渡り、箱舘奉行所の外国船検査掛として、入港する外国船に出入りするうちに写真術に興味を持つようになりますが、1868 ( 明治元 ) 年、箱舘府に仕えながら写真師 田本研造について写真術を学びます。

さらに 1870 ( 明治 3 ) 年 3 月に写真業を志して退官し、翌 1871 ( 明治 4 ) 年には凾舘天神町 ( 現 船見町 ) で写真館を開業しますが、9 月 12 日の " 切見世火事 " [ 午前 1 時頃,山の上町 ( 現 船見町周辺 ) の切見世長屋から出火 1123 戸焼失 ] によって全焼してしまいます。

翌 1872 ( 明治 5 ) 年 5 月には札幌へ移り、同年 10 月に開拓使御抱え写真師 ( 日俸 30 円 ) として仕え、南 3 条西 5 丁目の官宅も与えられて、開拓記録写真の撮影を行ないました。
さらに 1873 ( 明治 6 ) 年には大通西 2 丁目の宅地を与えられて家屋を新築し、
7 月には移転しています。

同年 11 月には開拓使官吏 ( 用度掛 ) となりましたが、本来の主旨と反するものと考え、
1875 ( 明治 8 ) 年、凾舘に帰るため住宅の買い上げを官に願い出て、一時、南 3 条西 1 丁目に住宅を借り上げて営業を続けていましたが、予想外の繁盛をみせたために凾舘に戻るのを取りやめ、
翌年、官宅の払い下げを受けて新しい写真館を開いています。

ここで武林盛一撮影による開拓記録写真の主なものをあげてみましょう。
( そのいずれもが、札幌の歴史を研究する上で必ずといっていいほど登場する有名な写真ばかりです )
◆ [PAGE 1-28〜33] 明治6年中撮影札幌市街之図 1 (全6枚)     明治 6 (1873) 年
◆ [PAGE 1-24]   西洋町長屋                  明治 6 (1873) 年
◆ [PAGE 1-21]   勅奏邸(西之方ヨリ見ル図)          明治 6 (1873) 年
◆ [PAGE 1-22]   洋造弐邸 (御雇教師館)            明治 6 (1873) 年
◆ [PAGE 1-2]    開拓使札幌本庁上棟式(正面)          明治 6 (1873) 年
◆ [PAGE 1-7]    開拓使札幌本庁舎落成記念           明治 6 (1873) 年
◆ [PAGE 2-3〜7]  琴似屯田兵村 1 (全5枚)            明治 7 (1874) 年
◆ [PAGE 1-42]   札幌豊平橋架設足場              明治 8 (1875) 年
◆ [PAGE 1-53]   札幌麦酒製造所開業式             明治 9 (1876) 年
◆ [PAGE 1-52]   札幌工業局事務所              明治10 (1877) 年頃
◆ [PAGE 1-25]   札幌爾志通西洋邸 (白官舍)          明治11 (1878) 年
◆ [PAGE 1-19]   建築中の豊平館               明治12 (1879) 年
◆ [PAGE 2-24]   清華亭(西南面)                明治13 (1880) 年
◆ [PAGE 2-16]   藻岩学校                   明治13 (1880) 年
◆ [PAGE 1-20]   竣功した豊平館               明治14 (1881) 年
◆ [PAGE 1-97]   札幌停車場                 明治15 (1882) 年頃
◆ [PAGE 1-98]   豊平川鉄橋                  明治16 (1883) 年
※ [ ] 内は検索結果で表示される PAGE 及び整理番号 ( 最近表示が少し変更になったみたいです )
写真はすべて 「 鶏卵紙 *」 に焼き付けられたもので、そのいずれもがたった一枚の記録写真です。
現在は 「 北海道大学附属図書館北方資料室 」 に所蔵されていますが、
それらのデジタルアーカイブされたものがインターネット上で閲覧可能となっています。
下のリンク [ 北方資料データベース ] から入り、
" 検索対象 " で " 明治大正期北海道写真目録 " にチェックを入れ、
検索ボックスに 「 武林盛一 」、一度に表示する件数を 100 として検索ボタンを押すと検索結果が表示されます。
すべての項目が画像表示されるわけではありませんが、
上記の項目名または [ ] 内の番号を探して click してみて下さい。
─→ 北海道大学附属図書館北方資料室 北方資料データベース
* 鶏卵紙 ・・・ 当時使われていた印画紙の代表的なもので、食塩で溶いた卵白を塗って乾燥させた後、
       硝酸銀で処理したもの。原板(ネガ)と重ねて太陽光で焼付けを行ないました。
       インターネットで検索すると、
       「古写真オークション」から「作り方」まで様々な情報にふれることができますが、
       なかなか実物を目にすることは少ないと思います。
       古写真や歴史ものを扱った古書店で尋ねると見ることができるかもしれません。
       このサイトでは、本編 [ 函館 #06 163 〜 165 ] が台紙に貼られた鶏卵紙のものです。
       ( サイズの関係でグレースケールにしてありますが ・・・ )
ここでもう一人の人物が登場します。
名前は三島常磐 ( 1854 〜 1941 ) 。武林盛一の一番弟子です。
彼は 1854 ( 安政元 ) 年 8 月 6 日、越後國苅羽郡二田村 ( 現 新潟県刈羽郡刈羽村 ) に生まれます。代々神官の家系でしたが、1873 ( 明治 6 ) 年 5 月に北海道へ渡り、 7 月には札幌に出て武林盛一の門に入り写真術の修業につとめました。

一方、武林は 1884 ( 明治 17 ) 年 11 月に、三島の長男で養子となった三島磐雄 ( 後の 武林無想庵 1880 - 1962 / 小説家・翻訳家 ) を連れて上京しますが、その際には店舗を弟子の三島常磐に譲って経営を委任しています。また 1887 ( 明治 20 ) 年にはその努力の功を認めて、「 武林写真館 」 を家号として譲りました。
上京後、麹町區一番町に写真館を創設して再び営業を始めていましたが、1904 ( 明治 37 ) 年 5 月に脳溢血で倒れて病床につき、 1908 ( 明治 41 ) 年 4 月 9 日、小石川區宮下町の自宅で亡くなり、雑司が谷墓地に葬られました。享年 67 歳でした。

三島常磐は札幌區會議員などの要職も歴任しながら門下生の養成にも力を尽くし、
武林写真館の名声も、札幌写真界において同業者の尊敬を受けるなど確固たるものになりつつありましたが、1907 ( 明治 40 ) 年 5 月 10 日の 「 札幌大火 *」 によって、当時南 3 条西 1 丁目にあった店舗は創業以来のガラス原板ともども焼失してしまいます。三島は直ちに復旧工事に取り掛かり、店舗も新築して翌 1908 ( 明治 41 ) 年には再び隆盛を迎えています。
* 札幌大火 ・・・ 明治 40 年 5 月 10 日 午前 2 時頃、南 3 条西 1 丁目 ( 狸小路 1 丁目 ) の
        「 共益商館 」より出火し、南 1 〜 3 条、西 1 〜 4 丁目の 379 戸を焼失
        焼死者 5 名 負傷者 25 名 札幌では明治 25 年 5 月 4 日に次いで二度目の大火。
前置きが少し長くなってしまいましたが、ここで一枚の絵葉書をご覧下さい。
「 武林冩真舘新築開業紀念 」 とあります。( ※ 「 武林真舘 」 の の文字がありませんでした。m(_ _)m )
中央に見えている建物が新築された写真館で、その部分を拡大したものが下の図です。
前置きの中で触れた、明治 40 年 5 月 10 日の 「 札幌大火 」 ─── 。
武林写真館の建物とともに貴重な開拓記録写真の原板も焼失してしまいましたが、
三島常磐が直ちに再建した新しい写真館がここに見えている建物です。
そしてその開業を知らせる絵葉書が・・・・・。
大火直後に宛先のはっきりしている得意客に送られたものとすれば、
差し詰め、リニューアル・オープンを知らせるダイレクト・メールといったところでしょうか。

なお、この [ File # 016 ] のサブタイトル 「 是れ実に札幌写真界に於ける嚆矢にして ・・・・・ 」 は、
『 武林写真館五十年誌 』 の冒頭の部分から引用させて頂きました。

また、 『 武林写真館五十年誌 』 の口絵には、
「 明治 40 年火災前 」 と 「 明治 40 年火災後 」 における写真館の様子が掲載されています。
「 明治 40 年火災後 」 のものは開業紀念の絵葉書のものとは別の写真ですが同一の建物です。
ところで、「 絵葉書の世界 」 本編に掲載された絵葉書群の中で、
たった一枚だけ田本製のものがあるのですが、お気づきになっている方はいらっしゃいますか。
函館 #05 - #111 「 本派本願寺 ( 西本願寺 ) 函館別院 」 の絵葉書がそれです。
右下に見えている K . Tamoto の表示は田本研造が当初より写真の台紙で使用していたものです。

いちばん最後になってしまいましたが、
この [ File # 016 ] をまとめるにあたっては以下に掲げる書籍を参考にさせて頂きました。
『 武林写真館五十年誌 』  ( 武林写真館同窓会 大正 11 年 8 月 3 日 発行 )
『 武林写真館百年の歩み 』  ( 武林写真館同窓会武量会 昭和 47 年 8 月 21 日 発行 )
『 北海道開拓写真史 ─記録の原点─ 』  ( ニッコールクラブ 昭和 55 年 4 月 発行 )
『 幕末の北海道写真師 田本研造と熊野 』  ( 岡本実 著 昭和 58 年 3 月 25 日 発行 )
『 北海道写真史 [ 幕末・明治 ] 』  ( 平凡社 昭和 58 年 11 月 18 日 発行 )
『 日本の写真家 2 田本研造と明治の写真家たち 』  ( 岩波書店 平成 11 年 5 月 26 日 発行 )
(H20.9)
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File #015 汽車博覧會 BACK
まず初めに下の絵葉書をご覧下さい。
写真は 「 博覧會列車 」 及び 「 小樽新聞社 」。
( 博覧會列車の拡大写真は
こちら )
少し見づらいですが、スタンプには 「 北海道汽車博覧會開催紀念 小樽新聞社 」 とあります。

「 汽車博覧會 」 は小樽新聞社の主催で、明治 43 年 8 月 1 日 〜 8 月 31 日を会期として行なわれました。当時の小樽新聞紙上では毎日、博覧會の様子が報じられ、 8 月は " 博覧會一色 " といった感じです。
" ちょっと変わった博覧会 " と書いたのはその会場のことで、絵葉書にも写っている 「 博覧會列車 」 が、初日の函館から最終日の室蘭まで、各駅構内に停車しては駅周辺と一体となって会場を構成するという博覧會でした。
上の図は 明治 43 年 8 月 1 日付の 『 小樽新聞 』 紙上に掲載された 「 開催驛の圖 」 ですが、
少しわかりにくいので会期日程を一覧表にしてみました。
* 「 下富良野 」 は現在の富良野駅です。

「 8 月 25 日 」 については小樽新聞の記事に詳細が掲載されていますが、
それによると、24 日の釧路会場終了後、翌 25 日早朝 5 時に釧路を出発し、午後 4 時 50 分に旭川到着、
休憩をはさんで午後 5 時 7 分に栗山に向けて出発、午後 9 時 45 分に栗山到着となっています。
また、第一日目の函館駅の様子も写真で伝えられています。
「 北海道汽車博覧會開催第一日凾舘驛に於ける會場入口大盛況の光景 」
『 小樽新聞 』 明治 43 年 8 月 3 日
また、この博覧会では主催者である小樽新聞社が記念の絵葉書を発行しましたが、
大変な人気のために売り切れ状態となった様子が絵葉書の写真とともに報じられています。
『 小樽新聞 』 明治 43 年 8 月 4 日 ( 紀念絵葉書 甲號 )
『 小樽新聞 』 明治 43 年 8 月 4 日
上の 「 紀念絵葉書 甲號 」 が最初に紹介した絵葉書です。新聞記事では同じく 8 月 5 日に 「 紀念絵葉書 乙號 (タテ型) 」 も紹介されていますが、残念ながら手元にはありませんでした。
この博覧会の絵葉書人気は想像を絶するものだったようで、たびたび紙面に登場しています。
( それぞれ別ウィンドウで開くようにしました。印刷が一部不鮮明のものもあります。 )
8 月 10 日 「 繪葉書の賣行 」
8 月 10 日 「 繪葉書をポストに投込む人へ 」
8 月 26 日 「 汽博紀念繪葉書を賣り出す 」
8 月 26 日 小樽新聞社 紀念繪葉書の広告
8 月 1 日に函館駅からスタートした汽車博覧會でしたが、
31 日間の会期も大盛況のうちに終了し、最終の室蘭駅で閉会となりました。
その後、室蘭市内において関係者による閉会式が挙行されましたが、その様子も紙面で伝えられています。
『 小樽新聞 』 明治 43 年 9 月 2 日
このようにして汽車博覧會は大成功をおさめ、
9 月 7 日付 『 小樽新聞 』 第一面には小樽新聞社による謝告が掲載されました。
『 小樽新聞 』 明治 43 年 9 月 7 日
(H20.8)
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File #014 6 月 1 日 BACK
毎年 6 月 1 日は藻岩山の 「 山開き 」・・・・・ 。
藻岩山は、アイヌの人たちに " インカルシペ " とよばれた 標高 531 m の山です。

この山の 「 山開き 」 の歴史は古く、
市内の 「 新善光寺 ( 明治17年 開山 ) 」 初代住職 大谷玄超上人が中心となって、現在の観音寺 ( 中央区旭ヶ丘 5 丁目 ) のあたりを起点として山頂までの約 2.8 q の登山道を開削し、
明治 18 年、山頂に観音像を安置して、翌 19 年 6 月 1 日に 「 第一回 山開き大祭 」 を行いました。

この登山道は、現在、札幌市の自然歩道 「 藻岩山ルート 観音寺コース ( 慈啓会病院コース ) 」 となっていますが、当初は道幅が 二 〜 三尺で、昭和 7 年 10 月に、札幌営林署が 一間 〜 一間半 に拡幅しました。また、北東斜面に広がる藻岩原始林は、大正 4 ( 1915 ) 年に原生天然保護林、大正 10 ( 1921 ) 年には北海道で最初の天然記念物に指定されています。

その後、明治 34 ( 1901 ) 年に 「 新善光寺 」 二代目住職 林玄松上人 が藻岩山に三十三観音を安置、山麓に " 観音堂 " ( 後の観音寺 ) 、山頂には " 石堂 " ( # 04 ) が建てられましたが、一坪ほどの " 石堂 " のほうは、昭和 48 ( 1973 ) に六角堂 ( 浄土観音寺 藻岩観音 奥之院 ) として再建されています。

手元に藻岩山の山開きに関する絵葉書が 4 枚ありました。( 以下の # 01 〜 # 04 )
( # 01 については TOP ページ 「 一枚の絵葉書 」 で紹介済み。 # 02 と # 03 は click で拡大されます。 )
# 01 藻岩山々開ニ参詣者登山ノ状況
 
# 02 藻岩山麓ヨリ登山ノ光景   # 03 藻岩山頂ヨリ参詣者下山シテ中腹ニ至ル
# 04 藻岩山頂ノ石造觀音堂
まもなく 「 山開き 」 。
" 都市と建築 " とは程遠く、以前から公開すべきかどうか迷っていたものですが、
その主役ともいえる人々の、霊域に対する山岳信仰が垣間見える " 旬の話題 " として
取り上げてみました。

なお、「 山開き 」 前日の 5 月 31 日は、藻岩山の標高 531 m にちなんで 「 藻岩山の日 」。
今年で 4 回目のイベントだそうで、もいわ山ロープウェイが無料運行されるとか・・・。
(H20.5)
「 新善光寺 」 二代目住職 林玄松上人 は、 「 絵葉書の世界 」 では二度目の登場ですが、皆さん覚えていらっしゃいますか。
  NEWS のコーナーで、
  inlineframe ( 上部 3 枚セットの絵葉書の部分 ) page 04 「 財団法人 札幌養老院 」の
解説 をご覧下さい。 (^^ゞ
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File #013 謹賀新年 BACK
 絵葉書には様々なものがありますが、今回の CLOSE UP では 「 年賀状 」 を取り上げてみました。
 ( 以下の画像はいずれも click で拡大されます )

 手持ちの絵葉書の中に " 年賀状 " のものがどれくらいあるのか、まったくわからないまま探してみましたが、意外と少なくてたったの二枚。文字だけのものは買った記憶がないので、少ないとは思っていましたが、想像以上 ( 以下 ? ) です。建築に関係のあるものということで当然かもしれないですね。

 下に掲げた #01 は 「 登別温泉 第一瀧本旅館 」 の年賀状です。
ごく普通のものですが、詳しくは公式 HP
http://www.takimotokan.co.jp/ で。
# 01 第一瀧本旅館
二枚目は #02 「 鈴木煉瓦製造場 」 のものです。
この絵葉書は使用済のものですので、#03 に宛名面も掲載しておきます。
# 02 鈴木煉瓦製造場 ( 裏 )
# 03 鈴木煉瓦製造場 ( 表 [ 宛名面 ] )
 ここで、「 鈴木煉瓦製造場 」 について簡単に説明をしておきます。

東京小菅の銀座煉瓦街用の煉瓦工場で煉瓦製造に携わっていた鈴木佐兵衛 ( 嘉永元 〜 明治 22 ) は明治 15 ( 1882 ) 年、家族とともに札幌白石に移り住みますが、明治 17 ( 1884 ) 年 5 月になって、白石村北郷 ( 現在の平和通 6 丁目あたり ) に 「 鈴木煉瓦製造場 」 を設立し、付近でとれる褐色粘土を使って煉瓦製造に着手、北海道における煉瓦製造業の先駆けとなりました。

鈴木煉瓦製造場の 「 白石煉瓦 」 は、同年 10 月に着工した手宮機関庫などのため、17 年から 18 年にかけて 「 幌内鉄道 」 と 合計 63 万個の契約を結び、製品は北海道庁本庁舎や帝国製麻会社などにも使用されました。

明治 19 ( 1886 ) 年 9 月には月寒村に分工場を建てて屋根瓦や土管の製造などにも着手しましたが、明治 22 ( 1889 ) 年 3 月に佐兵衛が亡くなると、その長男豊三郎 ( 明治 2 〜 大正 9 ) が後を継ぎます。豊三郎は地元の白石小学校に煉瓦造の御真影奉置所を寄付、明治 36 ( 1903 ) 年の白石駅開設にあたっては敷地 3000 坪余りを寄贈し、また白石村村会議員などもつとめました。

その後、明治 31 ( 1898 ) 年には北炭が野幌煉瓦工場を開設して登り窯による生産が始まり、
鈴木煉瓦製造場の煉瓦生産は明治 42 ( 1909 ) 年の 220 万個をピークとして次第に終焉に向かっていきます。
豊三郎も病がもとで大正 9 年 9 月に急逝し、さらにその後を継いだ長男の豊次もまもなく病に倒れ、
鉄筋コンクリートの普及にともなって見通しも立たなくなったため、鈴木煉瓦製造場は大正 11 ( 1922 ) 年に閉鎖されました。
(H20.1)


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File #012 地図の絵葉書 BACK
 「絵葉書の世界」 では様々な種類の絵葉書を公開していますが、
コンテンツ 「絵葉書の種類について」の中でも紹介しました " 地図の掲載された絵葉書 " の中から 「 札幌市街圖 」 のものをここで取り上げることにしました。
下に掲げたものがそれで、" 地図 " ですから北が上となりますが、市街地の発展は、山・川・海など自然の地形に大きく左右されますので、その場合の市街地の広がりかたによって絵葉書のレイアウトも縦になったり横になったりするわけです。

 当時の様子を知ることができる貴重な資料とも言える地図の絵葉書 ────── 。
この 「 札幌市街圖 」 は維新堂製ですが、どんな大きな街でも絵葉書の大きさに凝縮するわけですから必要最低限の情報しか載せることができず、写真絵葉書に比べて、作成を担当した人の苦労は計り知れません。


他のものと同様、大きなサイズのものを用意致しました。
こちら からどうぞ。
(H19.8)


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File #011 南満州鉄道株式会社 BACK
 もちろん北海道のものが中心なんですが、東京や東京以外の全国のものも含め、約 4500 枚ほど所蔵している絵葉書の中で、たった一枚だけ間違って (?) 買ってしまった海外のものがあります。 それが下の絵葉書ですが、ご存知の方はいらっしゃいますか。


 この絵葉書と出会った 25 年程前、まだ若かった (?) 頃の話なのでこの建物のことは知るよしもなかったのですが、アール・ヌーボーの影響がみられる建物外観やファサード上部にある「YAMATO HOTEL」の言葉の響きとその字体から、なんとなくこの建物が気になってしまい、たった一枚だけバラになっていたこの絵葉書を他のものと一緒に購入しました。
あとでゆっくり調べれば・・・などとのんびり考えていたのですが、なぜかそのままになってしまい、何年も経ってしまった訳で・・・。
その後、時間のあるときにいろいろと調べながら、少しずつみえてきたこの建物のことを、ようやくまとめることとしました。

 建物の名前は「長春ヤマトホテル」。
「南満州鉄道株式会社 (満鉄)」が本社を東京から大連に移した明治 40 年 (1907) に着工、明治 42 年 (1909) に竣工した、同社直営の高級ホテルです。
満鉄は、鉄道事業のほかにホテル経営・リゾート開発・倉庫業・不動産業なども手がけ、その鉄道沿線の主要都市にこの「ヤマトホテル」チェーンを展開しました。
この長春のほかには、哈爾濱(ハルビン)・瀋陽・大連・奉天・旅順なども有名ですが、それらに先駆けてここ長春に建てられたわけです。

 吉林省の省都である長春は、昭和 7 年 (1932) から昭和 20 年 (1945) まで満州国の首都として発展し、 「新京」と呼ばれて 日本人の手による街づくりが行なわれました。
満鉄には日本人建築技術者が多く在籍していましたが、この長春ヤマトホテルを担当したのは、東京帝国大学工科大学建築学科を明治 39 年、第 26 回生として卒業した市田菊治郎 (1880 - 1963) です。 同級には岡田信一郎、松井貴太郎などがいました。
市田はのちに満鉄地方部建築課長、同工事部建築課長なども務めています。
この旧長春ヤマトホテル、現在は「春誼寶館」という名称で営業しているそうです。
 なお、帝国ホテル社長をつとめた犬丸徹三氏が明治 43 年 (1910) に東京商業学校 (現 一橋大学) を卒業後、最初に勤めたのもこの長春ヤマトホテルでした。

下に掲げたものは、市田菊治郎の卒業設計「A BAZZER」及び、
市田の設計による「南満州鉄道株式会社長春事務所」─ 明治 41 年 (1910) 竣工。
卒業設計 「A BAZZER」
『東京帝國大學工學部建築學科卒業計畫圖集』 木葉會 編 洪洋社 発行 昭 3.3
 
南満州鉄道株式会社長春事務所
『建築世界』 第六巻 第二号 口絵 建築世界社 発行 明 45.2
(H18.12)


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File #010 札幌まつり BACK
札幌神社祭典ノ光景
 
札幌神社大祭 第二區山車
 明治 4 (1871) 年に 「 札幌神社 」 として現在地に社殿が造営されて以来、今日まで札幌の発展を見守りつづけてきた北海道神宮 ・・・・・ 。その年に一度の例祭が 「 札幌まつり 」 です。毎年、6 月 14 日夜の " 宵宮祭 " に始まり、6 月 17 日の " 後日祭 " まで、たくさんの神事や奉納行事が執り行われます。
 中でも 16 日の " 神輿渡御 " は、御祭神に街の繁栄ぶりをご覧になっていただくために市内を巡る大切な神事で、明治 12 (1879) 年から、戦時中の二度の中止を除いて毎年行なわれています。
 その後、明治 32 (1899) 年に 「 官幣大社 」 に昇格し、昭和 39 (1964) 年には明治天皇をお祀りして 「 北海道神宮 」 と改称しました。御祭神は、大国魂神 ・ 大那牟遅神 ・ 少彦名神 ・ 明治天皇 です。

 「 絵葉書の世界 」 では、札幌 # 033 〜 # 038 で関係のある絵葉書を紹介 ( # 037 は重複 ) していますが、
詳細は、北海道神宮の公式サイト 
http://www.hokkaidojingu.or.jp でどうぞ。(H17.6)

下の 8枚の絵葉書については、click すると別ウィンドウで拡大されます。
 
官幣大社札幌神社御祭典 神輿渡御 其一   官幣大社札幌神社御祭典 神輿渡御 其二
 
官幣大社札幌神社御祭典 神輿渡御 其三   官幣大社札幌神社御祭典 北海道廰内御祭詞
 
官幣大社札幌神社御祭典 三吉神社前ノ山車   官幣大社札幌神社御祭典 北一条通ノ山車
 
官幣大社札幌神社御祭典 停車場通ノ夜景   官幣大社札幌神社御祭典 競馬
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File #009 橇美人 BACK
( 札 幌 ) 橇 美 人 View of Otaru at Hokkaido
 今回、表紙の写真を「橇美人」というタイトルの絵葉書に入れ替えました。(モノクロでは単調なのでセピア調に加工してあります) この絵葉書については、じつは今までに何度も取り上げようと思ったことがあったのですが、タイトル表示が間違っていると思われるため、それらがはっきりしてから・・・・・と、ずっと考えていました。
 上の写真でもすぐにおわかりになると思いますが、タイトルには、
 「 ( 札幌 ) 橇美人 View of Otaru at Hokkaido 」 とあります。
 この絵葉書に掲載された写真について、「札幌」か「小樽」か、ずいぶんと悩んだのですが、このたび、関係者の方々のご協力によっていろいろなことがわかりましたので、このコーナーで取り上げることとしました。

 この絵葉書の中でただ一つだけ手がかりといえるのは、右側の男性が身につけている法被の襟に書かれた「開陽亭」の文字です。
 ここで「開陽亭」について少し振り返ってみましょう。

 明治初年 (一説では安政年間) に小樽で創業したとされる「魁陽亭」は、明治 29 (1896) 年 4 月 27 日の深夜に出火した「住ノ江大火」で灰燼に帰します。しかし翌月には仮普請で営業を再開し、その後、本建築も竣工して、9 月 19 日より新築開店をむかえました。この再興にあたっては、「宮松コウ」が函館から来樽してこれを引き受け、名称も「開陽亭」とあらためています。これが襟に書かれている「開陽亭」です。
 その後、明治 38 (1905) 年に終結した日露戦争による好況などで賑わい、また、翌 39 年 11 月 16 日には、日本郵船会社小樽支店で開かれた「日露国境劃定会議」(11月13日) のあとの祝宴が二階大広間で開かれています。大正時代に入ると、第一次世界大戦 (大正3年─1914) の影響で再び好況がおとずれ、小樽色内の銀行街が「北のウォール街」と呼ばれた頃にはもっとも賑わったといいます。昭和に入ると「開陽亭」は「海陽亭」と名前を変えます。時節がら、軍人の利用などが多くなり、終戦直後は一時、駐留のアメリカ兵などで賑わったこともあったそうですが、その後は本来の落ち着きと静けさを取り戻し、現存する道内最古の老舗料亭として現在に至っています。

 ここで話を元に戻しましょう。

 はじめの絵葉書の写真が、「札幌」なのか、それとも「小樽」なのか・・・・・。
 この疑問につきまして、このたび「海陽亭」の 宮松 忍 様からご教示を頂きました。それによりますと、まず、撮影された場所は小樽。しかも海陽亭の前ではないか、とのことです。宮松様の先代のご当主 (お父様) はご健在で、札幌の「海陽亭」にお住まいだそうですが、写真の背景に見えている塀に見覚えがあるそうで、まず間違いなく大正期の「開陽亭」であるとのことです。さらに、「開陽亭」の法被をまとい、ベレー帽をかぶった右側の男性は、当時、開陽亭の「車係」として勤めていた 三浦志郎 という人物に顔がそっくりだ、とのこと。また、志郎の弟は、やはり開陽亭で当時板長をつとめていた 三浦 力 という人物で、共に他界するまで海陽亭に勤めてくれた恩人だそうです。
 左側の芸者とおぼしき女性の素性は不明でしたが、この写真については、
「当時車係の志郎が、芸者を送り迎えする様を開陽亭の入口付近で撮影したもの」
ではないか、とのことでした。

 今回のことで、「海陽亭」の 宮松 忍 様にはたいへんお世話になりました。
 なお、LINK のページに「海陽亭」 http://www.kaiyoutei.jp/ を追加致しました。
昭和 60 年、小樽市の歴史的建造物 第 2 号にも指定された、北海道を代表する老舗料亭です。ぜひ一度ご覧下さい。(H15.11)

※ この File #009 につきましては、宮松様のほか、
  『流芳後世 おたる 海陽亭』(北海道建築士会小樽支部 創立四十周年記念誌 平成4年)
  を参考とさせて頂きました。
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File #008 10 月 14 日 BACK
明治四十三年五月廿八日 札幌鐵道工場・苗穂停車場 開始祝賀會紀念
 明治 5 (1872) 年 9 月 13 日、わが国ではじめて新橋 (汐留) 〜 横浜 (桜木町) 間に蒸気機関車が走りました。アメリカから招かれた御雇い外国人 R. P. ブリッジェンス の設計で新築されたばかりの新橋停車場・横浜停車場間を、イギリス製の機関車と客車が走ったのです。この日本最初の鉄道は、明治 14 (1881) 年 5 月 8 日には新橋横浜間の全線が複線化されています。#

 一方、"♪ 汽笛一声新橋を 〜" で有名な鉄道唱歌ですが、その汽笛がこだましてから二年後の明治 7 (1874) 年 5 月 11 日、大阪 〜 神戸 間に鉄道が開通、さらに明治 9 (1876) 年 9 月 5 日には大阪 〜 京都 間が開通して神戸 〜 京都 間が鉄路で結ばれました。日本で二番目の鉄道です。

 ここでいよいよ北海道の登場となります。
 開拓使設置以来の懸案であった交通網整備。その頃すでに注目されていた幌内産出の石炭を、手宮の港からどうやって運び出すか。これに対して明治政府は 150 万円を "炭鉱の開墾" という条件つきで用意しました。そこで開拓使は明治 11 (1878) 年 10 月に「煤田開採事務掛」を設置し、鉄道の建設計画に着手、アメリカからやってきた御雇外国人 J. U. クロフォードを顧問に迎えて工事に取り掛かります。
 こうして明治 13 (1880) 年 11 月 28 日、手宮 〜 札幌 間の鉄道が開通しました。
 日本で三番目の鉄道の誕生です。
 その後、明治 15 (1882) 年 11 月には札幌 〜 幌内が開通して手宮と幌内が結ばれ、明治 18 (1885) 年 12 月には手宮機関庫も完成しました。現在、「北海道鉄道記念館」として一般公開され、第六号機関車の「しづか」などが復元保存されています。(第一号「義経」は兵庫鷹取工場、第2号「弁慶」は東京交通博物館で保存)

 ところで、この「しづか」の復元作業は札幌の苗穂工場で行なわれました。
 苗穂工場は、明治 42 (1909) 年 12 月 8 日に鉄道院 札幌管理局 札幌工場 (大正 4 年 4 月に苗穂工場と改称) として設立されました。また工場南側に隣接して苗穂停車場が明治 43 (1910) 年 5 月 16 日に開業しています。(本当は苗穂工場の開設にあわせて開業する予定でした) これを記念する祝賀会も開催されましたが、そのスタンプが上の絵葉書に見えています。

 現在の JR 苗穂工場内には「北海道鉄道技術館」がありますが、これは明治 43 年に建てられた煉瓦造倉庫 (用品庫) を展示資料館として改装したものです。工場内では最古の建物で、「さっぽろ・ふるさと文化百選」にも選ばれています。毎月、第 2、第 4 土曜日に開館していますので是非ご覧下さい。(開館時間 13:30 〜 16:00)
 苗穂工場では、毎年 10 月 14 日の「鉄道記念日」にあわせて、工場の一般公開を行なっています。実際に機関車の車輪やエンジンが作られている現場を見ることができる一大イベントで、全国から多くの鉄道マニアも訪れます。今年の一般公開は 10 月 11 日に行なわれました。

 そして、今回のタイトルともなっている「10 月 14 日」。
 わが国最初の鉄道、新橋 〜 横浜 間が全通した明治 5 (1872) 年 9 月 13 日は旧暦の日付けですが、この年の暮、同年 12 月 3 日を「明治 6 (1873) 年 1 月 1 日」とする太陽暦 (新暦) が採用されます。「 9 月 13 日」は「10 月 14 日」と改められて、大正 11 年 10 月、この日が「鉄道記念日」と制定されました。(H15.10)

# じつは、「軌道」という意味で、日本で最初のものが北海道に存在していた。茅沼炭鉱で掘り出した石炭を海岸まで運び出すため、木製鉄板張りの軌道を敷いて、ブレーキを装備した大型トロッコを用いていた。坂道の部分では滑車を通して実車と空車を結び上下させたという。この軌道も明治 15 年には鉄製のレールへと変わり、炭鉱も昭和 39 年に閉山となった。
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File #007 明治40年代―小樽 BACK
小樽 / #132





 上の写真は 小樽 #132 で紹介したパノラマ写真の一枚で、絵葉書ではありません。
 本編でも触れておきましたが、これは市販されたものではなく、この写真を撮影した写真館が保存用として制作したものではないかと考えられます。折りたたみ式の台紙に生写真が直接貼り付けられたアルバムで、奥付などもありませんが、明治末期における小樽市内の様子を知ることのできる貴重な資料といえます。
(残念ながら手放してしまいましたが・・・)

 今回はこの写真について少し・・・・・。
 写真内の白線は説明用に追加したものですが、その白線に囲まれた部分を拡大したのが下の写真です。
* 上の写真を見ながら読んでいただきたいと思いましたので、説明文をインライン・フレームとしてあります。
 お手数ですが、そのままの位置でスクロールしながらどうぞ。(^^ゞ
 いかがですか。
 明治39年の磯野商店倉庫があって明治44年11月の清水合名会社が写っていない写真。
 それともう一つ。最初の写真をよく見ると港の中に防波堤がありますが、これは本編でも触れた通り、初代小樽築港事務所長 廣井勇の設計によって 明治41年 5月に完成した北防波堤です。つまり、その間に撮影されたパノラマ写真の一枚ということになります。
 「明治40年代―小樽」――――― 表題のタイトルはこんな理由から付けました。
 当時の小樽の街を、写真の中で散策することができたでしょうか。

■   ■   ■

 ところで話は変わりますが、先ほど登場した「海猫屋」――――― 。
 ご存知の方々も多いと思いますが、若者に限らず、お年寄りなどにも人気の小樽を代表するスポットです。このたび LINK のページにも追加させていただきました。
 この建物は明治39年に建てられた磯野商店の倉庫ですが、磯野商店はこの色内町で海陸物産商店のほか、漁業、農業、倉庫業などを営んでいました。
 主人の磯野進は明治 5年、新潟県佐渡郡両津町に生まれています。明治23年、現 中央大学の前身である東京法学院 (その前身は英吉利法律学校。明治22年改称) を卒業後、30年には小樽へやってきます。32年の区制実施とともに区会議員となり、36年からは商業会議所議員として副会頭1期、会頭2期をつとめました。
 プロレタリア作家 小林多喜二は、大正13年に小樽高商 (現 小樽商大) を卒業し拓銀小樽支店に就職しますが、その彼が中央公論に発表した小説「不在地主」は、磯野が富良野郊外に所有していた農場で起きた小作争議がモデルとなったといわれています。

■   ■   ■

 一枚の写真でさえも、見方によってはいろいろと考えさせられることがあります。
 歴史的な見方からすれば「絵葉書」はさまざまな情報の集合であって、これだけ技術や文化の進んだ現代でも、そこから得られるものは限りないと言えます。(H15.8)
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File #006 北炭 BACK
「小樽高架全景 其一」





 この絵葉書には小樽の日本郵船支店裏を通る鉄道手宮線の様子が写し出されています。
 郵船会社の裏側が見える絵葉書は少なく、そういう意味では貴重なものといえるかもしれません。社屋の前方にはたくさんの倉庫が建ち並んでいますが、このあたりは、明治20年代に倉庫建設のために用地を購入したところです。
 写真ではよくわかりませんが、これらの倉庫群に囲まれて艀の積卸しのための船入澗が設けられていました。( 昭和36年には埋め立てられますが・・・)



 ところで、この絵葉書と似たデザインのものが他にもありますが、もうご覧になりましたか。 (◆幾春別 1/1 ◆江別 10/10 ◆夕張 1/9 ◆夕張 2/9 などなど・・・)
 手がかりとなるのは絵葉書の左下に入っているマークですが、これは、1889 (明治22) 年11月、それまでの政府経営による幌内鉄道・幌内炭鉱などの払い下げを受けて創業した「北海道炭礦鉄道」の社章です。
 つまり、" 北炭 (一般にはこうよばれています) シリーズの絵葉書 " というわけですが、夕張・空知両炭鉱の開発や室蘭・空知・夕張各線の新設など、北海道とはたいへん由縁の深い会社です。
 1906 (明治39) 年の「鉄道国有法」によって同社の鉄道は買収され、社名を「北海道炭砿汽船」と改名、事業主体は炭鉱業と船舶回漕業に移りますが、その後、戦禍による船舶の喪失などから 1942 (昭和17) 年に三井船舶へ譲渡し、石炭の輸入販売などを中心として現在に至っています。また社章も当時とほとんど変わっていません。
 北海道では現在、夕張鉄道 によって 夕張〜新札幌 間に 夕鉄バス が走っていますが、この会社は、1921 (大正10) 年に炭砿汽船、三井合名、宮内省などの協同出資によって設立されたものです。

 話は変わりますが、上に示した四枚の絵葉書のうち、江別 10/10 には「野幌煉瓦場」と説明があります。
 江別におけるレンガの製造は、1891 (明治23) 年の江別太煉瓦石工場が始まりといわれていますが、写真の「野幌煉瓦場」は 1898 (明治31) 年に「北海道炭礦鉄道」が始めたもので、野幌の煉瓦工場の中では最も古い方と言われています。当時は、夕張鉄道線から野幌停車場に釜の燃料である石炭が直接運び込まれていました。
 野幌産の煉瓦はさまざまな建築に利用されましたが、CLOSE UP のコーナーで紹介した「旧日本銀行小樽支店」などにも用いられています。
( DOWNLOAD のコーナーで紹介した PDF ファイルをご覧ください)
三越呉服店写真部製作による、これら「北炭シリーズ」の絵葉書は、一つの企業の歴史も物語っていることになります。(H15.7)
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File #005 武徳殿 BACK
「大日本武徳会北海道支部 武徳殿」





 ここに掲載した絵葉書は、現在の札幌医科大学附属病院のところに建っていた「武徳殿」の外観及び内部を写したものです。この建物は、北海道庁警察部内にあった大日本武徳会北海道支部が、昭和 6年、有志からの醵金をもとに南 2条西16丁目に建設したもので、弓道場も併設されていました。

 絵葉書の裏 (本当はオモテ面ですが・・・) には、
「 大日本武徳會北海道支部 皇紀 2591.11.10 武徳殿 落成記念 」
のスタンプがあります。 (右図を参照)

 「皇紀」というのは、日本の建国、つまり天皇制の始まりから年代を数える方法です。そのスタートとなるのが神武天皇の即位 (西暦では紀元前660年) で、「紀元」ともよばれていました。
 スタンプにある「皇紀2591年」は「昭和 6年」にあたりますが、紀元2600 (昭和15) 年には国を挙げての様々なイベントが開催されました。その中でも最大のものが「紀元二千六百年式典」で、11月10日に全国各地で行なわれました。
 毎年、2月11日は国民の祝日である「建国記念の日」ですが、戦前まで「紀元節」とよばれていたのはご存知の通りです。
 1872 (明治 5) 年、明治政府は「古事記」「日本書紀」の記述に基づいて、神武天皇が即位したという 1月29日を祝日とします。
 さらに、翌年には「紀元節」と名称を変えて 2月11日に期日を変更しますが、これは 1948 (昭和23) 年の廃止まで続き、その後、1967 (昭和42) 年に復活して現在に至っています。

 少し話がそれましたが、この「武徳殿」には幼い頃の思い出があります。
 (カッコつけてるわけではないのですが)
 たしか小学校 3〜4年の頃だと記憶していますが、一番上の絵葉書にも見えているように、この建物にはとても大きな階段がありました。いま考えるとキレイに磨かれた御影石でできていたと思いますが、この階段の手摺り (といっても30pぐらいの幅がありました) に後向きに座り、スベリ台代わりにして何度も昇り降りしていました。そんな遊び道具を見つけてしまうところが、子供ってすごいなぁと感心してしまいます。
 それから、軒先にはものすごい数のツバメの巣があったのを覚えています。でも、もうその頃は空き家だったような気がしますが・・・。
 それからしばらくしてこの建物は取り壊され、現在の医大病院の一代前の建物が建てられました。(H15.7)
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File #004 中将湯 BACK
「開道五十年北海道博覧会第一会場正門通り」





 上の絵葉書をよく見ると「開道五十年北海道博覧会第一会場正門通り」(札幌南一條) とあります。
 開道五十年記念北海道博覧会は、札幌中島公園を第一会場、北一条西四丁目の工業館を第二会場、そして小樽区水族館を第三会場として開催されました。その状況を伝える絵葉書も相当数が発行されています。
 博覧会の会期は 1918 (大正 7) 年 8月 1日 〜 9月19日 で、期間中に 142万人もの来場者を数えました。建物の総数は59棟に及び、道内からだけでも 2万点をこえる出品があったといいます。この博覧会の開催にあわせて馬鉄が路面電車に変わるなど、札幌の市街も大きく変貌を遂げていきます。また当時の展示館やシンボル塔などの設計には、曽禰中條建築事務所の一流のデザイナーたちが参画したことも注目すべき出来事でした。

 ところで、北海道における博覧会の歴史は「北海道物産共進会」と密接なつながりがあります。
 「北海道物産共進会」は明治20年代からたびたび開催されていましたが、初めて開かれたのは 1887(明治20)年で、会場は中島公園でした。このころから中島公園は、博覧会の会場として次第に整備されて行きます。現在、貸しボートなどで賑わっている池も、もとはといえば、明治のはじめに開拓使工業局が木材の運搬用につくった貯木場で、博覧会の開催中は釣り堀やボート乗り場だったところです。

 話を絵葉書に戻しましょう。
 上の絵葉書に写し出されているのは、現在の都心部、四丁目十字街から駅前通りを南 (ススキノ方向) に見た様子です。 正門通りとあるのは、この通りの突き当たりが中島公園 (第一会場) で、博覧会の正門があったためです。

 右手前の建物は秋野札幌支店 (現在の4丁目プラザのところ) という薬局ですが、屋上の看板を見てください。

 看板には " 中将湯・津村順天堂 " とありますが、ご存知の通り「津村順天堂」は、あの「バスクリン」で有名な「ツムラ」のことです。
 津村順天堂はたいへん歴史が古く、今年で創業110周年を迎えました。
 1893 (明治26) 年 4月、初代津村重舎が東京日本橋に「中将湯本舗津村順天堂」の看板を掲げ、奈良・藤村家に代々伝えられてきた婦人病の妙薬「中将湯」の販売をはじめますが、「中将湯」は現在でも販売され続けているのをご存知ですか。
 その「中将湯」のシンボルともいえるものが「中将姫」マークで、現在もパッケージに使用されています。
 絵葉書の一部分を拡大したものが右の写真ですが、いかがでしょうか。
 なお、「ツムラ」は 1897 (明治30) 年、生薬による「浴剤中将湯」を商品化しますが、さらに改良を加え、1930 (昭和 5) 年 6月に「バスクリン」を発売します。150 g 入りの缶で 五十銭、ジャスミンの香りだったそうです。(H15.7)
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File #003 海の日 BACK
函館 / #041   明治天皇御上陸記念碑





国民の祝日 「海の日」、今年は7月21日でしたが、皆さんどのように過ごされましたか。
平成13年6月の " 国民の祝日に関する一部改正 " ( 通称 ハッピーマンデー法 ) により、
従来7月20日であった「海の日」は、平成15年度から7月の第3月曜日となりましたが、
その由来などを少し・・・。

「海の日」の前身となった 「海の記念日」 は、昭和16年に制定されました。
毎年 7月20日であったこの日が、実は北海道と所縁が深いのをご存知でしょうか。
今から 120年以上も昔の 1876 (明治 9) 年。ちょうど札幌では、開拓使が麦酒醸造所の建設に着手したり (6/27)、W.S.クラーク博士が札幌農学校の教頭として来札 (7/31) する頃です。

その年の 6月20日、明治天皇は東北巡幸のため東京を出発します。
そして、東北の巡幸を終えた 7月16日、天皇は青森から函館の旧税関へ上陸し、市内や桔梗、七飯などを視察、すべての日程を終え、7月18日に函館港を出発、二日後の 7月20日、無事横浜港に到着 しました。
これを記念して制定されたのが 「海の記念日」 です。

その後、1996 (平成 8) 年に 「国民の祝日に関する法律」 (祝日法) が改正され、7月20日を 「海の日」 としました。 「海の日」 を理解するにはこれで十分ですが、ここで "オマケ" を一つ。

明治天皇上陸の舞台となった函館・・・・・。

観光客たちが散策する西部基坂下の海上自衛隊前に 「明治天皇御上陸記念碑」 があります。
( 函館 / #041 ─── 上の絵葉書。函館にお住まいの方はご存知だと思います。)
この碑は文字通り、明治天皇の上陸を記念して昭和10年に除幕されました。
後ろに見えているのは、明治天皇の上陸した旧税関跡に、明治44年に新築された函館税関です。
( この建物は昭和46年に取り壊されています )
旧税関は明治 8年に新築されていますが、「函館 #164」の中で開拓使庁からまっすぐ伸びる基坂のつき当たりに見えるのがその建物です。

・・・・・が、この碑の別名を 「三蹤碑」 と呼ぶのをご存知でしょうか。

じつは、函館の街は、三度、明治天皇を迎えています。
1876 (明治 9) 年の上陸と乗船で二回ですが、その 5年後の 1881 (明治14) 年 7月30日、明治天皇は再度、東北・北海道巡幸のため東京を出発、この時は、8月30日に小樽へ上陸し、行幸の行在所である札幌豊平館に到着されました。 ( 豊平館は開拓使が作った洋造ホテルとして知られていますが、本館部分は 1880 (明治13) 年11月に竣工し、行幸直前に鉄柵・門・造園などを含めた全工事が終了しています )
その後、9月 2日に札幌を出発、陸路、千歳・白老を経て室蘭より御召艦迅鯨に乗船され 9月 5日 森港桟橋 に上陸されました。

森港桟橋は、1872 (明治 5) 年 3月に開拓使とアメリカ人技師ワーフィールドによる函館札幌間の新道建設が亀田一本木から始まり、同年 7月、森までの 11里 17町が完成したのを受け、同月に室蘭への渡航を目的に着工されました。
翌1873 (明治 6) 年11月には、全長百四十一間四尺、幅員三間三尺の桟橋が完成しますが、橋脚の防腐剤には近郊の鷲ノ木村で湧出する石油が用いられたそうです。
1893 (明治26) 年 4月の 青森 ─ 函館間航路の室蘭延長によって、室蘭 ─ 森間の航路が廃止されますが、昭和11年11月には史蹟に指定、昭和14年 3月、茨城産の白御影石で高さ 10m の上陸記念碑が、海岸より 45m の地点に建立 されました。
この碑は今も残っていて、北海道観光などで札幌から函館に向かって JR に乗車すると、列車の窓から左手の海の中に見えてきます。
( ほんのわずかな時間しか見えていませんので、うっかりすると見落としてしまいそうですが・・・・・ )
明治41年 6月には室蘭 ─ 森間の定期航路が一時復活しますが、昭和 3年 9月の長輪線開通によって結局廃止されてしまいました。

明治天皇は、9月 5日の上陸後、馬車で阿部重吉経営の阿部旅館に到着し宿泊をします。その建物はのちに焼失し、庭園だけが残りました。「行在所」の木札、下賜された銀盃は阿部家に保存されています。
右の絵葉書は、その 「森行在所址」 を写したものですが、左手にのちの阿部旅館が見えています。
翌 6日には馬車で函館に向かい、翌 7日に函館から乗船して離道しました。

これら三度の光栄をたたえて 「三蹤碑」 と呼ばれています。

函館観光の折には、ぜひ歴史に触れてみてください。(^^) (H15.7)
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File #002 札幌農学校 BACK
札幌 / #011





 じつは、以前からずっと探し続けている一冊の本があります。
 少し長くなりますが、話題提供も兼ねながら、ここで紹介したいと思います。

 本の題名は 『葭の影』 ———— 。
 1935 ( 昭和 10 ) 年 7 月に作家 宮本百合子 の母、中條葭江 ( 昭和 9 年 6 月逝去 ) の遺稿集として出版されたものです。昔の話なので記憶が定かではありませんが、10 数年前、個人的にお付き合いをしていた、札幌では老舗の古本屋 (残念ながら今はありません) の目録に、2 点同時に掲載されてすぐに電話を入れたのですが、先客があってもちろん売れたあと。大変残念な思いをしたことを覚えています。今でも入手したいと思っている本のうちの一冊です。

 前置きはこれくらいにして、ここで少し、本とその背景について ・ ・ ・ ・ ・ 。


 では、まずはじめに一人の建築家にスポットを当ててみましょう。

 中條精一郎 ( 1868 〜 1936 ) ———— 。
 日本の近代建築を少し勉強したことのある人であれば、
かならず記憶に残っている名前ですが、
皆さんはご存知ですか。


 明治の新時代が始まり、明治政府はその模範を海外に求めました。
当時 「建築」 に最も近い官庁と言えば 「工部省」 (明治 18 年廃止) ですが、その中に 「工学寮」 という技術者養成機関がありました。しばらくして 「工部大学校」 と名称を変えますが、急激な近代化による技術者不足を補う目的で設置された 「工部大学校」 からは、明治 12 年に最初の卒業生が世に出ました。現在の東京大学工学部の第一期生です。

 当時、建築学科は 「造家学科」 と呼ばれていました。その後、工部省の廃止と東京大学工芸学部との合併により 「帝国大学工科大学」 と名前を変えましたが、その明治 31 年造家学科卒業生の中にいたのが 「中條精一郎」 です ( この翌年から建築学科と名前を変えます )。

 のちに第一期生の曽禰達蔵と、戦前では最大と言われた設計事務所 「曽禰中條建築事務所」 を開設し、また建築士会や建築士法制定のために生涯をささげた人物です。彼は明治 31 年 7 月に帝国大学を卒業すると、翌 32 年 5 月に文部技師として 札幌農学校内の文部省建築掛出張所長 を命ぜられ、またその年の 10 月には 「札幌農学校土木工学科造家学講師」 を嘱託され、札幌に赴任してきます。

 北海道大学の前身である 「札幌農学校」 は現在の 「時計台」 付近に 1876 ( 明治 9 ) 年に開校しますが、 明治 31 年に移転が決定 し、当時、付属農場のあった現キャンパスの位置に校舎群を新築することになり、中條が設計を担当することとなりました。

 彼はここで農学部本館をはじめとして、農芸化学及物理学教室、図書館 #012 ( 明治 35 年竣工 現存 )、昆虫及養蚕学教室 #013 ( 明治 34 年竣工 現存 )、動植物学教室 #014 ( 一部植物園内 宮部金吾記念館として移築 )、農業経済学及農政学教室を設計しています。
# 012 図書館 # 013 昆虫及養蚕学教室
# 014 動植物学教室
 一番はじめに紹介した 札幌 / #011 は彼の設計で完成した新キャンパスの様子です。
 農学部本館のほか、今も現存する 昆虫及養蚕学教室図書館 などが見えています。


 もうお気付きだと思いますが、その彼の妻が 「中條葭江」。
 女流作家の 宮本百合子 ( 昭和 7 年 宮本顕治と結婚 ) は彼の娘です。
 宮本百合子全集などを読んでいくと、父、精一郎のプライベートでのできごとが数多く登場します。
 (たとえば、「わが父」、「父の手帳」、「父の手紙」、などなど。)
 百合子自身も作品の中で書いていますが、彼女は 1899 ( 明治 32 ) 年 2 月生まれ。
 父親の仕事の関係で、生後 10 ヶ月から満 3 歳まで両親と札幌で暮らしています。

 少し長々と書いてしまいましたが、まだ手にしたことのない 「葭の影」 にも当然 "中條" のことなどが登場してくるはずで、何とか実物を見てみたいと思っています。(H15.6)
※ このページの人物写真につきましては、以下の文献に掲載のものを使わせて頂きました。
    ◆ 『曽禰達蔵 中條精一郎 建築事務所作品集』 黒崎幹男 中條建築事務所 1939

※ 『 葭の影 』 につきましては、その後 国立国会図書館近代デジタルライブラリー で公開されていることがわかりました。
( 「 近代デジタルライブラリー 」 は 2012 年 5 月 7 日に 「 国立国会図書館デジタル化資料 」 と統合されています )

詳細は以下の通り。
『 葭の影 ─ 中条葭江遺稿 』
中条葭江 著 / 中条百合子 編 / 中条精一郎 発行
昭和 10 ( 1935 ) 刊 534 p / 23 cm
築地向島時代の思ひ出 / 初霜 明治三十年日記 / 歐洲旅日記 /
日記抄 / おも影 / 葭の影にそへて

興味のある方は、 こちら をご覧下さい。

※ 国立国会図書館ではさまざまなサービスを提供していますが、
「 絵葉書の世界 」 は 2003 年 10 月 1 日に " データベース・ナビゲーション・サービス " [ Dnavi ] に登録されています。
( 現在の登録データベース数は約 16,000 件 )  ( H 24 . 5 )
※ 北海道大学の関連年表へ
※ 札幌農学校改築教室予定圖へ
◆ この図は『覆刻札幌農学校』北海道大学図書刊行会 昭和50年 附録の「札幌農学校改築教室予定圖」で、
  図は中條の筆によるものといわれています。
  もとは 札幌農学校学芸会蔵版『札幌農学校』明治35年4月 東京日本橋裳華房 増補第三版 に折込まれた
  挿図です。建築家としての中條精一郎を理解するための参考資料として引用させて頂きました。
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File #001 狐生擒隊 BACK
道内 / 得撫 1/1





"原田" は "原田商店" のことで、根室地区を中心に絵葉書を発行していたところです。
"波良多" と表記されているものもみられますが、同一のものかどうかは不明です。
"生擒隊" は、今はあまり使わない文字ですが、「 いけどり ・ たい 」 と読みます。

国後・択捉・歯舞・色丹の「北方領土四島」を含む千島列島は、北海道の東北端よりつらなる大小 25 の島々からできています。その一番南にあるのが 「国後島」、一番東の端にあるのはロシア "カムチャッカ半島" に対峙する 「占守島」 で、それらの全長は約 1,180 km にも及びます。昔、日本で 「クルムセ」 、ロシアで 「クリル」 と呼ばれていた島々が 「千島列島」 と呼ばれるようになったのは、明治 2 年に蝦夷地が北海道と改称されたときからです。
そして、その 「千島列島」 は三つの区域に分けられていましたが、この絵葉書の 「得撫島」 (ウルップ島) というのは、中部千島 18 島の最南端に位置します。北千島 (北部千島) は占守島を含む 5 島、南部千島は国後 ・ 択捉の 2 島です。
つまり、得撫島 と択捉島は隣り合った島ということになります。

じつは、1854年 (安政元) 12 月、帝政ロシアとの間に締結された日露和親条約 (下田条約) では、日本とロシアとの国境は、中部千島と南部千島との間、つまり択捉島と 得撫島 との間とされました。また樺太においては、共有領土として両国間に境界を設けなかったために紛争が絶えず、1875年 (明治 8) 5月、全権榎本武揚が中心となってクリルアイランド樺太交換条約を締結し、千島列島はすべて日本領土、樺太はロシア領土となりましたが、当時の我が国が全島を警備することはもちろん不可能なわけで、密漁なども絶えなかったそうです。

この絵葉書の中心はなんと言っても写っている三人の人物ですが、当時の絵葉書で、人間がカメラに向かってポーズをとったもの (?) は珍しかったので、取り上げてみました。
人物部分を拡大したのが下の写真ですが、皆さんは何を感じますか。(H15.5)




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