File #002 『 東京帝国大学紀要 工科 第壹冊 第壹號 』 東京帝国大学 ( 明治31年 3月 発行 )
 "「建築学者」 という肩書きが最も似合う人物は ? " という問いかけに対して明治以降の人物群から択一するとすれば、「伊東忠太」 の名を挙げることに賛同する人は多いのではないでしょうか。
 現東京大学工学部の前身である 「工部大学校」 についてはこれまでにも説明をしてきましたが、その 「工部大学校」 は明治19年の帝国大学令により帝国大学と合併して工科大学となります。
 当時の教授陣は講師も含めると、辰野金吾、曽禰達蔵、ジョサイア・コンドル、小島憲之、中村達太郎、曾山幸彦、片山東熊など、そうそうたる顔ぶれでした。

 その明治25年の卒業組にいるのが 伊東忠太 ( 1867 - 1954 ) です。
 彼は山形県米沢市の出身。明治14年上京して東京外国語学校 (獨語科) に学びますが、同18年に同校が廃止となったため、第一高等中学校 (のちの第一高等学校) に編入となって本科へと進みます。そして同22年7月、帝国大学工科大学造家学科に入学して建築を志します。同級には山下啓次郎がいました。その後、同25年に工科大学の卒業論文 「建築哲学」 を提出、大学院へと進みます。翌26年、造家学会 (現 日本建築学会) の機関誌 「建築雑誌」 11月号に、論文 「法隆寺建築論」 を発表しますが、これはのちに、彼の大学院卒業論文、学位請求論文として提出され、明治31年、東京帝国大学から紀要として発刊されることになりますが、これが今回取り上げたものです。

 今でこそ、「法隆寺」 を知らない人などいませんが、「法隆寺」 を建築の歴史の舞台へと押し上げ、世界最古の木造建築であることを発見したり、その 「法隆寺」 の柱のエンタシスやプロポーションからギリシャ建築との関係を見いだして、実際に三年間もかけてギリシャとのあいだを歩きまわり、その途中で中国雲崗の石窟寺院を発見したりするわけで、とにかく研究熱心な人です。
 その後、工科大学教授、早稲田大学教授、帝国学士院会員、帝国芸術院会員などの要職を歴任し、昭和29年4月7日、東京文京区の自宅で亡くなります。享年86歳でした。

◆ 伊東忠太博士の写真につきましては、『伊東忠太建築作品』( 城南書院 昭16 ) に掲載のもの、また早稲田大学の卒業記念
  写真につきましては、『建築世界 第七巻第八号』( 建築世界社 大 2. 8 ) に掲載されたものを使わせて頂きました。
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File #001 『 京都インクライン物語 』  田村喜子 著  新潮社 ( 昭和57年 9月 発行 )
 明治16年 5月15日、工部大学校(現在の東大工学部)第五回卒業生35名のうち、土木科卒業生は11名。その中に第一等及第で卒業した21才の青年技術者がいました。
 彼の名前は田辺朔郎。28才という若さで琵琶湖疏水工事完成という、日本土木史上に残る金字塔をうちたてた近代土木の先覚者で、その業績により、イギリス、アメリカ、ドイツの各国からも表彰を受けた世界的土木技術者です。

 彼が卒業した工部大学校の就学期間は6年間。普通科、専門科、実地科の各 2年毎に分かれ、普通科では英文学、数学、物理学、化学、製図学の5課目を修得、専門科ではさらに土木、機械、電気、造家、造船、鉱山、冶金、応用化学の 8分科となり、実地科になると、学生たちは学科応用の実地研究を行なうため、工部省工作局の辞令を受けて全国各地へと散らばって行きます。この研究成果が卒業論文となるのです。
 明治14年 3月18日、朔郎が受けた辞令には「学術研究ノタメ東海道筋並ニ京都大阪出張申付候」とありました。彼の運命はこの時決まったのかもしれません。

 漠然とした出張辞令から、朔郎はその日的地を京都に決めました。
 同年10月のある朝、彼は京都に向けて出発します。そして、東京を発ってから10日目には京都府庁を訪れ、そこで勧業課の丹羽圭介という人物から、北垣国道知事の疏水構想を開かされます。ためらうことなく、朔郎はその研究テーマとして、「琵琶湖疏水工事の路線調査」を選びました。その調査のことを耳にした京都府知事の北垣は、明治15年春、虎ノ門の工部大学校に学生田辺朔郎を訪ねます。北垣は校長室で朔郎から、具体的な疏水計画についての詳細な説明を聞き、また開拓使時代から面識のある校長大鳥圭介も彼を推薦します。こうして北垣は、琵琶湖疏水工事という大事業を、工部大学校を卒業したばかりの朔郎に任せることを決断しました。
 朔郎は卒業を待って、疏水工事担当の京都府御用係に採用されました。

 明治18年 8月着工、同23年 4月に完成し、国家予算 7,000万円の時代に125万円を要し、その工期 4年 8ヶ月の間に400万人を動員した大プロジェクト「琵琶湖疏水」にはいくつかのドラマがあります。
 まず、水力発電。朔郎は疏水の落差を利用して、わが国最初の水力発電事業を始めます。これによって、京都の市街地には明治28年、わが国最初の電車が走りました。
 つぎに、トンネル工事。朔郎の路線調査と計画によって、明治18年、全長 1万1103mの疏水の一部に、延長2436mという、当時としては日本一長いトンネル、長等山第一隧道が貫通しました。これによって、彼はトンネル技術者としての名声も手に入れることになります。
 そして、インクライン。朔郎が自らこう呼んだ傾斜鉄道は、電気動力によって、蹴上舟溜と南禅寺舟溜との間、長さ582m、勾配15分の 1の斜面を、船が台車に載せられて上下します。当時の人々は「船が山にのぼる !」といって驚嘆の目を見張ったといいます。

 疏水の完成した明治23年の11月、朔郎は文部大臣榎本武揚の媒酌で、北垣の長女、静子と結婚します。
 (ちなみに朔郎の姉鑑子は 工部大学校造家学科一回生片山東熊のもとに嫁いでいます)
 そして同年には工科大学の教授となり、翌24年には29才の若さで工学博士の学位を受けています。

 一方、北垣は明治25年 7月、第 4代北海道庁長官として赴任、北海道の鉄道計画に力を入れ、同29年 5月には北海道鉄道敷設法が公布、同月道庁内に設置した「臨時北海道鉄道敷設部」には、技師として朔郎を招いています。朔郎はその後、明治31年、北海道庁鉄道部長を経て、同33年、京都帝国大学の創立により理工科大学教授、大正 5年には京都帝国大学工科大学長、昭和 4年、土木学会長を歴任し、そして昭和19年 9月 5日、82才をもって永眠します。京都市は、その業績に対する感謝の念と、その魂の永くこの地にとどまることを願って彼に墓所を贈りました。

 疏水の完成から100年以上を経た現在でも、京都市の飲料水および生活用水の99%はこの疏水によって賄われています。

 文化財建造物と言えば、どうしても建築の方に偏りがちですが、明治23年完成の琵琶湖疏水とインクラインは、現在、永久形態保存の決定を受けて京都の代表的な観光資源ともなっている、貴重な土木文化財です。

※ なお、同書は平成 6年に中央公論社より中公文庫として再刊されています。

◆ 田辺朔郎博士の写真につきましては、『 田辺朔郎博士六十年史 』 ( 西川正治郎 大13 ) に掲載のものを使わせて頂きました。
※ LINK のページに、京都市上下水道局の「琵琶湖疏水」を紹介したサイトを載せてあります。
     琵琶湖疏水   http://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000006469.html
  疏水の歴史などについて詳しく紹介しています。ぜひご覧ください。
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